第二章 ノートの最後の頁
検査室の前に、人が集まっていた。
昨日私が膨張を見つけた缶の同じロットから、別の事業所でボツリヌス疑いが発覚したらしい。すぐに製造元へ連絡が入り、全国の事業所で当該ロットの使用が止められた。
「うちは未然に防げたんだよ。桐生さんがすぐに気づいて、上に上げてくれたから」
所長の声が、私の耳を通り抜けた。
桐生先輩は、神妙な顔で何度も頷いていた。
「私、たまたま昨日検品入ってて。ちょっと違和感あったから、念のため止めたんですよ」
所長は満足げに頷き、桐生先輩の肩を軽く叩いた。
「やっぱり、現場の目利きが一番だな。さすがベテラン」
「いえ、たまたまですよ」
私は何も言わなかった。
手の中の人参を、ただ細く、細く刻み続けた。
包丁の刃が、まな板を打つ。とん、とんとん。リズムが少しだけ、いつもより乱れた気がした。
昼休み、ロッカーの前でノートを開く。
昨日書いたロット番号のページに、薄い鉛筆で、短い日付を添えた。「未然防止」と書きかけて、消した。誰のために残すのだろう、これは。
最後の頁が、いつの間にか折れ目だらけになっていた。
『誰も見ていないところで、丁寧に。それが、いつかあなたを助けてくれるから』
祖母の字。私は指でなぞる。
助けて、くれるのかな。
ふと自分の存在が空気みたいに思えた。私が消えても、桐生先輩は誰かを使って同じことをするだろう。同僚は少し困って、それでも仕事は回るだろう。
私の代わりは、いくらでもいる。
午後、所長から声をかけられた。
「悪いんだけどさ、茜ちゃん、明日の配送、急きょ補助で乗ってもらえる? 運転手さん体調崩しちゃってさ」
配送便。普段乗らない仕事。
「私で、いいんですか」
「茜ちゃん、検品もできるしね。荷下ろしのとき食器の数も合わせてもらえると助かる」
私は黙って頷いた。所長の頭の中で、私は「都合のいい人手」として、すぐに引き出される存在になっている。それを苦いとも思わなかった。
帰り道、夕焼けが眩しくて、目の奥がじん、と痛んだ。
駅の改札を抜けながらふと私はノートを鞄の奥にしまい直した。万が一にも落としたくない。私にはこれしか、本当に大切と思えるものがない。
翌朝、配送センターで点呼を受ける。代理の運転手は、年配の男の人だった。
「補助のお嬢さん、初めてだろ。荷台が滑るから、気をつけてな」
「はい」
「配送先はリストの順番通りに。途中で寝るなよ、振動すごいから」
保温ボックスを積み込み、検品票にサインをする。アレルギー食のトレーに赤いシール。色分けが正しいか、最後にもう一度確認する。
助手席に乗り込んだその瞬間、地面が、ぐらりと揺れた気がした。
いや、地面ではなく、視界がだ。
白い線が、目の前を斜めに走っていく。
「お嬢さん? 大丈夫……」
運転手の声が遠くなる。
目の前の景色が、ガラスの向こうで色を失っていく。
ハンドルを握る運転手の横顔が、紙のように薄く、白く、滲んでいく。
大きな音と衝撃。
最後に見えたのは、フロントガラスの向こうの、白く割れた空。
そして、自分の鞄から滑り出した、祖母のノートの背表紙だった。
次に意識が戻ったとき、私は見たこともない場所にいた。




