第一章 冷たい厨房とまな板の音
午前五時、給食センターの厨房に最初に灯りをつけるのは、いつも私だった。
蛍光灯がじじっと音を立てて点滅し、白い光が広い調理場を浮かび上がらせる。冷えた床。銀色の作業台。まだ眠っているスチームコンベクションオーブン。冬の朝の厨房は、底冷えがして指先からすぐに感覚を奪う。
更衣室で白い割烹着に着替え、帽子の下に髪を全部しまい込む。専用の靴に履き替え、爪の長さを確認し、手を洗う。指の付け根、爪の先、手首まで。三十秒。これは祖母から教わった手洗いだった。
「茜ちゃんまた一番なの」
警備員のおじさんが通りすがりに笑う。私は黙って頭を下げた。
「そんなに早く来なくたって、誰も褒めてくれないよ」
「すみません」
「謝ることじゃないよ」
おじさんは苦笑して、巡回に戻っていった。
冷蔵庫から朝の野菜を取り出す。今日の献立は、鶏肉と根菜の煮物、青菜のおひたし、味噌汁。一日二千食分。市内の小学校四校と、特別支援学校一校に運ばれる。
まな板を確認する。色分けはされていないが、私は心の中で勝手に分けている。生肉用、魚用、野菜用。誰も気にしていないけれど、私の中では譲れない線だった。
包丁を握り、人参を刻みはじめる。同じ大きさ、同じ厚み。指先がリズムを刻む。とん、とんとん。
刻みながら、頭の中では今日のロットを反復していた。鶏もも肉、産地、入荷日、消費期限。野菜の入荷時刻、検品担当者。アレルギー食、本日三名。Aさん卵、Bさん乳、Cさん甲殻類。トレーには赤いシール。
厨房の時計が六時を指したころ、勢いよく扉が開いた。
「おはよ。茜、もう仕込み入ってんの? えらいねぇ」
桐生美波先輩。化粧の匂いをふわっと残しながら、私の作業台の隣に立つ。三十二歳。私より七年先輩で、口だけはいつも上手い人だった。
「あ、その人参、私がやるからいいよ。茜は洗い場にまわって」
彼女は私が刻んでいた途中の人参を、自分のまな板に移し替えた。半端な切り口が、彼女のまな板に並ぶ。
「あとで、献立会議のとき先輩に話しといてあげるからさ。茜の頑張り」
私は何も言わず、洗い場へ歩き出す。背中で同僚のひとりが小声で漏らすのが聞こえた。
「茜さんがいないと、ここ回らないのにねえ……」
桐生先輩の声がそれを遮る。
「ほら、おしゃべりしてないで、検品終わってないでしょ」
洗い場の蛇口をひねる。冷たい水が手の甲に当たって、しん、と痛んだ。
地味な仕事ほど、誰も見ていない。
私はその言葉を呑み込み、洗剤の泡をじっと見つめた。泡が重なり、薄くなりまた重なる。私はその水音だけを聞いていた。
ロッカーには、祖母から受け継いだ古い料理ノートが入っている。茶色く色褪せた表紙。中には、祖母の几帳面な字でびっしりと、下処理の手順が書き込まれている。
『下処理は、ぜんぶの土台です。誰も見てないけど、料理は嘘をつかないからね』
祖母の声がいまも耳の奥にある。
祖母は田舎で、寺の精進料理を任されていた人だった。小さな台所で、毎朝同じ時刻に、同じ手順を繰り返す人だった。私は子供のころからその背中を見て育った。豆を水に浸ける時間、出汁を引く水の量、野菜の切り方。すべてに理由があり、すべてに祖母なりの順番があった。
祖母が死んだとき、ノートだけが私の手元に残った。
九時すぎ、缶詰の検品をしていたときだった。
業務用の大型缶。豆の水煮。その一つの蓋が、わずかに膨らんでいた。
膨張缶。ボツリヌス菌の可能性。
心臓が冷える。私は手を止め、缶のロット番号と入荷日を素早くメモした。震える指で、桐生先輩を呼ぶ。
「先輩、これ、見てください。膨張があります」
桐生先輩は缶をちらりと見て、ふっと鼻で笑った。
「茜は神経質すぎ。これくらい、よくあるって」
「でも、規格上は、わずかでも膨張があれば使用中止です」
「あんた、また私の仕事増やしたいわけ?」
「そういうつもりじゃ」
「いいから戻して。あんた、毎回大袈裟なんだから」
私は口を閉じた。
ノートに、ロット番号と入荷日、肉眼で確認できた膨張の度合いを、簡単なスケッチで残す。これは私の癖だった。誰にも見せない自分のための記録。
その日の夕方、私は普段通り、誰よりも遅くまで残って、洗い場の床を磨いていた。床のぬめりを取り、排水口の網を外して茶色い汚れをこそげる。誰もここを見に来ない。それでも、私はやる。
明日もまた同じ朝が来る。そう思っていた。
帰り道、駅のホームで電車を待ちながら、私はぼんやりと自分の手を眺めた。爪の脇が荒れて、薄く血が滲んでいる。指先のあかぎれはもう何年も治っていない。
誰も見ていない手だ、と思った。
翌朝、出勤したセンターは、ざわついていた。




