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異世界転生した調理補助員、地味な仕込みで世界救って元の厨房に帰ります  作者: もしものべりすと


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第二十三章 春のまな板

季節は、ゆっくりと、進んでいった。


 復帰してから、ひと月、ふた月。給食センターの厨房は、少しずつ、けれど確実に、形を変えていった。


 色分けまな板は最初の二週間、誰もが手探りで使っていた。「このまな板、ちょっと使うね」と、別の用途の色をつい、手に取ってしまう人がいた。私はそのたびに淡々と声をかけた。


「すみません、それは、肉用なんです」


「あ、ごめん、つい癖で」


「癖は、誰でもあります。私も最初は、ありました」


 ベテランの女の人が、ある日、私に向かってにっこり笑った。


「茜ちゃんね、責めないで教えるのが上手いね」


「責めるほどのこと、ではないので」


「うん。それが、いいんだよ」


 彼女は人参を切る私の手元を見ながら、言った。


「私さ、若い頃、別の場所で、すっごい厳しい先輩について、教わってさ。怒鳴られて、泣いて、覚えたんだよ。だから、教わる側も、教える側も、しんどかった」


「そうですか」


「茜ちゃんに教わると、しんどくない。怒られない。だから、覚える」


「ありがとうございます」


「礼を言うのは、こっち」


 彼女は自分の作業台へ、戻っていった。


 私は彼女の言葉を、ノートに、書き留めた。


『教えるとき、責めない。私も最初は、ぜんぶ、できなかったから』


 検品票の二人体制も、徐々に定着した。最初は「面倒くさい」と言っていた人たちも、二人で確認することで互いのミスが減ることに、気づき始めた。


 所長は月の終わりに、本社に向けて、改善報告書を提出した。


「茜ちゃんの提案、本社の品質管理部に評価されたよ」


「そうですか」


「来月から、市内のほかの給食センターにも横展開するって」


「はい」


「もし、研修みたいな形でほかのセンターに行ってもらうこと、あるかもしれないけど、いい?」


「はい、行けます」


「君、変わったね」


「そうですか」


「前は、こんな話、断ってたよ」


「そうでしたね」


 所長は苦笑した。


 桐生先輩の話は、誰ももう、口に、しなかった。


 彼女が異動した先でどうしているのか、私は知らない。知る必要も、感じなかった。


 ただふと考えることは、あった。


 あちらの世界の、聖女イレーナは最後の最後で、人として、笑った。誰かに認められたかった、と、自分の弱さを口にした。


 桐生先輩も、もしかしたらどこかで、似たような気持ちを抱えていたのかもしれない。


 でも、もう私がそれを引き受ける必要はない。


 彼女の物語は、彼女のものだ。私の物語は、私のものだ。


 春の初め、給食センターに、新しい、若い子が、入ってきた。


 高校を出たばかりの、十八歳の女の子。


 名前を聞いて、私は息を呑んだ。


「梨原藤子です。よろしくお願いします」


 藤子。


 祖母と同じ字、同じ読み。


 別の家系の、別の家の、たまたま同じ名前の別の子。


 でも、その偶然が私の胸の奥を、少し揺らした。


「梨原さんは、私と姓が同じだね」


「あ、はい。よろしくお願いします、先輩」


 彼女はまじめな子だった。


 黒い髪を、きっちりと、後ろで束ねて、白い割烹着の襟元を何度も、整えていた。爪は、短く切ってあった。指輪も、していなかった。


 初日、私は彼女に手洗いの仕方を教えた。


「指の付け根、爪の先、手首まで。三十秒です」


「三十秒、長いですね」


「最初は、長く感じます。でも、慣れると、ちょうどいい長さになります」


「はい」


「あと、傷のある手では、食材に触らないでください。絆創膏を貼って、その上からゴム手袋をします」


「分かりました」


 彼女はメモ帳を取り出して、私の言葉を書き留めていった。


 その動作が、私の若い頃と似ていた。


 いや、私の若い頃のもっと前の、祖母の隣でメモを取っていた、子供の頃の私と似ていた。


 昼休み、彼女は私の隣でお弁当を広げた。


「先輩、いただきます」


「いただきます」


 彼女のお弁当は、不器用に詰められた卵焼きと、青菜のおひたしと、おにぎりだった。


「これ、自分で作ったの」


「はい。ひとり暮らし、始めたばかりで」


「上手だね」


「全然です。卵焼き、ぐちゃぐちゃで」


「色がきれい。形が四角じゃなくても、色がきれいなのは、火加減がちゃんとしてるってこと」


 彼女は目を丸くした。


「先輩、よく見てますね」


「見るのが仕事だから」


「すごい」


「すごく、ないよ」


 私は苦笑した。


「ねえ、藤子さん」


「はい」


「何か料理のことで、教わってきた人、いる?」


「祖母がいました」


 心臓が一拍、止まった。


「祖母の名前、聞いてもいい?」


「あ、はい。梨原ふじって名前で。私の名前の、藤子の元になった人なんです」


 梨原ふじ。


 私の祖母と同じ名前だった。


 偶然か、それとも、と、私は考えるのをやめた。


 偶然でも必然でも、この子がいま私の隣で、私の祖母と同じ名前の人から料理を教わってきた、という事実だけがある。


 それで、十分だった。


「私の祖母も、ふじっていう人で」


「えっ、本当ですか」


「うん。びっくりした。同じ名前」


「何それ。すごい偶然」


 彼女は嬉しそうに笑った。


 その笑顔は、私が王宮の中央厨房でマルタに孫娘のような気持ちで見守ってもらっていたときの、マルタの笑顔とほんの少し似ていた。


 そんなはずはない。


 でも、似ていた。


 午後、彼女にまな板の色分けの意味を教えた。


「赤が、生肉用」


「肉ですね」


「青が魚介用。緑が野菜。白が果物と、加熱したあとのもの」


「混ざると、お腹を壊すからですか」


 私は瞬きした。


「うん、そう。よく分かったね」


「祖母が家でも、まな板を二枚使ってました。生肉は別って」


「そうか」


「『下処理は、ぜんぶの土台』って、よく言ってました」


 私はしばらく、何も言えなかった。


 彼女の祖母も、私の祖母と同じ言葉を孫に伝えていた。


 名前だけでなく、教えも同じだった。


 もしかしたら同じ人だったのかもしれない。あるいはぜんぜん別の人だったかもしれない。


 でもそれは、もうどちらでもよかった。


 大切なのは、台所の女たちの続きが、続いていくことだった。


「藤子ちゃん」


「はい」


「先輩って、呼ばなくていいよ」


「えっ、でも」


「茜さんでいい」


「茜さん」


「うん」


 彼女は嬉しそうに頷いた。


 夕方、洗い場で、彼女が床を磨くのを、私は見ていた。


 不器用な手つきだった。


 でも、丁寧だった。


 誰も見ていない場所を、彼女はちゃんと磨いていた。


 私は彼女に、声をかけなかった。


 声をかけなくても、磨かれた床は磨かれた床として、そこに残るからだった。

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