第二十四章 終わりの光景・新しいまな板
四月の朝。
午前五時、給食センターの厨房に最初に灯りをつけるのは、私の役目だった。
藤子ちゃんも最近、四時半に出勤するようになっていた。
彼女は私と一緒に警備員のおじさんに軽く頭を下げる。
「お、姉妹みたいだなあ」
「藤子ちゃんは苗字が、同じだけです」
「そういうのが、姉妹みたいなんだよ」
おじさんは笑って、巡回に戻っていった。
更衣室で二人とも、白い割烹着に、着替える。私は慣れた手つきで、藤子ちゃんはまだ少し、襟元を整える時間が長い。
手洗い。三十秒。
二人並んで、洗面台で、指の付け根、爪の先、手首まで丁寧に泡を立てる。
藤子ちゃんがぽつりと言った。
「茜さん、最近思うんですけど」
「うん」
「この三十秒の手洗いで、ものすごくたくさんの人が救われてるんですよね」
「かもしれないね」
「私、この仕事、地味だけど、大事だなって」
「うん」
「最初、給食センターってなんとなく就職先に選んだだけだったんです」
「そうなんだ」
「でもいまは、ここに来て、よかったって、思ってます」
私は藤子ちゃんの横顔をちらりと見た。
彼女は自分の手の泡をじっと見ていた。
その横顔は、給食センターの、はじめての朝に、桐生先輩に人参を、取られて、洗い場へ歩いていった、あの日の、私とは違う色の、光を、持っていた。
「藤子ちゃん」
「はい」
「私もここに、いて、よかったって、思ってる」
「茜さんでもそう思うんですか」
「私でも最近やっと、そう思えるようになった」
彼女はにっこり笑った。
厨房の蛍光灯を、奥から手前へ、順番に点ける。じじっと白い光が調理場を起こしていく。
冷蔵庫を開ける。
今日の献立は、鶏肉と根菜の煮物、青菜のおひたし、味噌汁。一日、二千食分。
偶然か必然か、復帰初日と同じ献立だった。
いや、給食センターでは献立は循環する。一年で一周する。だから、何度でも同じ朝が来る。
でも、今日の朝は、復帰初日とも、その前のいつかの朝とも違う朝だった。
まな板を四枚、並べる。
赤、青、緑、白。
藤子ちゃんが自分用の四枚を隣に並べる。
彼女のまな板も規格品だが、彼女は自分のお給料で買ってきた。
「藤子ちゃん、自分のまな板、嬉しい?」
「嬉しいです。なんか、自分の道具が自分の手になじんでる感じがします」
「うん」
「茜さんが最初に買ってきたとき、私はちょっと感動したんですよ」
「感動」
「自分のために、自分のお金で、業務用のまな板を、四枚買う人がいるんだって」
「変な感動の仕方だね」
「だって、ふつうは職場にあるものを使うじゃないですか」
「私、欲しいものがふつうの場所にはなかったから」
藤子ちゃんはこくり、と頷いた。
今日の人参を、まな板の上に並べる。
包丁を握る。
とん、とんとん。
同じ大きさ、同じ厚み。指先がリズムを刻む。
隣で、藤子ちゃんも別の人参を刻み始める。
とん、とんとん。
二つの音が、厨房の薄い暗がりの中で、重なって聞こえる。
あちらの世界の丘の中腹で、七つの大鍋から湯気が立ち昇っていた、あの瞬間が不意に蘇った。
私はいま誰にも見られていない、ふつうの給食センターの厨房で、ふつうの人参を刻んでいる。
でも、この刻む音は確かに、向こうの世界の湯気の柱と、同じ場所から、生まれていた。
たぶん世界のどこの厨房でも、同じだ。
誰かが誰かのためにまな板の前に立つとき、そこに見えない湯気の柱が立つ。
その湯気は、誰にも見えない。
でも、誰かのお腹を確かに満たす。
六時過ぎ、ベテランの女の人と、ほかの同僚が入ってきた。
「茜ちゃん、今日も早いね」
「おはようございます」
「藤子ちゃんもすっかり馴染んだねえ」
「茜さんに教わってますから」
ベテランの女の人は、私たちのまな板を見て、にっこり笑った。
「色分け、もう誰も迷わなくなったよ」
「定着しましたね」
「茜ちゃんが、怒鳴らないで教えるから、よ」
私は首を振った。
「私、別に特別なことしてないです」
「そういうところ」
「え」
「茜ちゃんのそういうところがいいんだって、みんな言ってるよ」
彼女は笑って、自分の作業台へ戻っていった。
私は頬がわずかに熱くなった。
ノートを開く。
最後の頁の、自分の字。
『下処理は、世界を作ります』
『私はただの調理補助です。だからこそ、仕込みができます』
『私の手は私のものですが、私だけのものではありません』
私はその隣に、新しく一行書き加えた。
『下処理は、誰かの続きでもあります』
書き終えてから、ノートを閉じた。
藤子ちゃんが私の手元をちらりと見た。
「茜さん、それ、何のノートですか」
「祖母から受け継いだ料理ノート」
「見てもいいですか」
「うん」
私はノートを彼女に差し出した。
彼女は丁寧な手つきで頁をめくっていった。
最後の頁を開いて、彼女はしばらく字を見つめていた。
「茜さん」
「うん」
「これ、私も写していいですか」
「写す?」
「自分用のノートに」
「もちろん」
「ありがとうございます」
彼女は深く頭を下げた。
その姿勢がまた、私の知らない誰かの姿勢と、よく似ている気がした。
でももう、似ている、似ていない、を考えるのはやめた。
大切なのは、これから彼女が自分のノートに、私の祖母の字と、私の字を写すということ。
そして、彼女がいつか、自分の字を、その隣に、書き加える、ということ。
その続きが、あればいい。
午前八時最初の出汁が、釜から、立ち昇った。
味噌のふくよかな匂い。
厨房の温度がゆっくりと上がっていく。
窓の格子から、四月の朝の光が薄く、差し込んだ。
私はその光の方向に、しばらく、立った。
光の角度。湯気の流れ。誰かの笑い声。
あちらの世界の丘の中腹に立っていた、夜明けと、私の中で重なる。
でももう揺らがない。
ここが、私の本当の場所だ。
藤子ちゃんが私を、呼んだ。
「茜さん、味見お願いしてもいいですか」
「うん」
彼女が長柄の杓で、出汁を、小皿に、すくった。
私はその小皿を、受け取り、ひと口、飲んだ。
舌の上で、出汁の、深さが広がった。
昆布と、鰹の、濃い、けれど、すっきりとした味。
「美味しい」
「本当ですか」
「うん。ちゃんと引けてる」
「茜さん、教えてくれてありがとうございます」
「うん」
「私、ここで続けていきたいです」
「うん」
「茜さんの、隣で」
私は彼女の頭を軽く撫でた。
あちらの世界で、レイノルドが私の肩を抱えてくれた、あの夕日の温度が、自分の手のひらの中にまだ残っていた。
その温度を、今度は、私が誰かに、伝えていく。
とん、とんとん。
藤子ちゃんが私の隣でまた、人参を刻み始めた。
包丁の音が、厨房の四月の朝の空気を、明るく揺らした。
それは、誰にも見られていない、ふつうの、朝の、ふつうの、音だった。
でも、その音の、ひとつ、ひとつが、確かに世界を作っていく音だった。
給食センターの時計が、八時半を指した。
今日の二千食の最初の鍋に、火が、入った。
白い湯気が、ゆっくりと立ち昇った。
私は自分の手で、その湯気の方向を、確かめた。
風は、東から西へ、流れていた。
あちらの世界の、最後の朝と同じ方角だった。
私はふっと笑った。
そして、声には出さず誰にも聞こえないように、ひと言だけつぶやいた。
「お疲れさまです」
誰に向かって言ったのか、自分でもよく分からなかった。
でも、そのひと言はたしかに、誰かに届いた気がした。
厨房の、湯気がまたふわりと揺れた。
それから、私はいつもの朝と同じように、まな板の前に、戻り、次の野菜を、手に、取った。
とん、とんとん。
いつもの、リズムが始まった。
今日も、同じ、明日も、同じ、明後日も、同じ、けれど、毎朝、ほんの少しだけ違う。
その「ほんの少し」が、いつか世界の形を変えていく。
私はそのことをもう知っている。
だから、今日も、私はふつうに、まな板の前に立つ。
ふつうの調理補助として。
ふつうの私として。
了




