第二十二章 ふつうの朝、ふつうのまな板
午前四時半。目覚まし時計が鳴る前に、私は目を開けていた。
退院から、三日ぶりの、給食センターへの出勤日だった。
ベッドの脇の机の上に、退院祝いに自分で買った、四枚のまな板が、積み上げられていた。赤、青、緑、白。プラスチック製で、規格品のシール付き。家庭用の小さなものではなく、業務用の、私の腕に少し重い大きさ。
通信販売で、お給料の半分を使って、買った。
マグカップ一杯分の白湯を、ゆっくり飲んでから、家を出た。
駅までの道は、暗かった。
冬の朝の空気は、相変わらず、肺の奥まで、冷たく届いた。
でも、私はもう、その冷たさを、嫌いではなかった。
給食センターに着いて、警備員のおじさんに軽く会釈をする。
「茜ちゃん、無事戻ってきたね」
「はい、お騒がせしました」
「謝らなくていいよ」
「すみません、つい」
おじさんは苦笑して、巡回に戻っていった。
いつもの、変わらない、朝だった。
更衣室で、白い割烹着に着替え、帽子の下に、髪を、全部、しまい込む。専用の靴に履き替え、爪の長さを、確認し、手を洗う。指の付け根、爪の先、手首まで。三十秒。
祖母から、教わった、手洗い。
異世界の厨房で、副料理長が「神官のそれに似ている」と言った、手洗い。
同じ手洗いを、私は今朝も、淡々と、繰り返していた。
厨房の蛍光灯を、いつもの順番で、点ける。一番奥から、手前に向かって。じじっと白い光が調理場を起こしていく。
冷蔵庫を開ける。
今日の献立は、鶏肉と根菜の煮物、青菜のおひたし、味噌汁。一日、二千食分。
偶然だった。
退院初日の献立が、私が向こうの世界へ行った、あの日の献立と同じ。
私は思わず、ふっと息を漏らした。
誰かに笑われているのか、誰かに励まされているのか、それともただの献立の繰り返しなのか。
どれでも、よかった。
鞄から新しい四枚のまな板を取り出す。
作業台の上に並べる。
赤に「肉」、青に「魚」、緑に「野菜」、白に「果物・加熱後」と、油性マジックではっきり書いた。
その横に、ノートを開いて置いた。
最後の頁の、私の字。
『下処理は、世界を作ります』
『私はただの調理補助です。だからこそ、仕込みができます』
頁の隣に、新しい紙を貼った。
「色分けまな板の使い方 赤:生肉用 青:魚介用 緑:野菜用 白:果物・加熱後」
「使用前後に、必ず、煮沸消毒。使用後の置き場所は、それぞれ別の棚」
単純な、当たり前の紙だった。
六時に、扉が開いた。
例の若い同僚が入ってきた。
「茜さん、おはようございます」
「おはよう」
「もう、来てたんですね」
「うん」
彼女は私の作業台の、四枚のまな板を見た。
しばらく、無言だった。
それから、ぽつりと言った。
「茜さん、これ、私も使っていいですか」
「もちろん。っていうか、これからはみんなに使ってもらいたい」
「でも、規則とかは」
「所長に提案してみるよ」
「茜さん、本当に、いいんですか」
「うん」
「これまで茜さん、自分のものを誰かに使ってもらおうってしなかったから」
「私、変わったかもしれない」
「変わった?」
私は自分の手を眺めた。
「自分のためにやっていることが、誰かの役にも立つって、思えるように、なった」
彼女は目を潤ませた。
「桐生先輩、もう、来ないんですよね」
「うん」
「正直、ほっとしました」
「うん」
「でも、たまに、これって、私たちが追い出したのかなって、不安になります」
私は首を振った。
「桐生先輩は、自分で自分のしてきたことに追い出されただけだよ」
「でも、私たちが所長に告げたから」
「告げてくれて、ありがとう」
彼女は何度も頷いた。
それから、自分の作業台へ戻っていった。
ほかの同僚たちが次々と入ってきた。
みんな、私を見て最初は戸惑った顔をした。それから、私の作業台の新しいまな板を見てもう一度戸惑った。
四十代のベテランの女の人が、私の前に立った。
「茜ちゃん、まな板、なんで、四枚?」
「色分けで用途を分けます。生肉、魚、野菜、果物・加熱後」
「ふぅん」
「使ってみて駄目だったら、戻していいです。でも、一週間使ってみてもらえませんか」
「なんで、急に」
「私、入院中に考えたことがあって」
「考えたこと?」
「自分のためにやってきたことをもうちょっと人に見せていいかなって」
彼女はしばらく私の顔を見ていた。
それから、ふっと笑った。
「茜ちゃん、変わったね」
「そうですか」
「うん。前は、もっと、なんていうか、空気を薄くしてた感じがあった」
「空気を、薄く」
「自分がいることを、申し訳なさそうにしてた」
「ああ」
「いまは、ちゃんといる感じがする」
彼女は私の肩を軽く叩いた。
それから、自分の作業台へ戻っていった。
午前八時、所長が出勤してきた。
「茜ちゃん、お疲れさまね。無理しないで」
「所長、お時間、いいですか」
「ん、なに」
「業務改善の提案を書いてきました」
私はノートとは別のファイルを、所長に差し出した。
昨日の夜、私が徹夜で、まとめた書類。
色分けまな板の導入。検品票の二人体制。先入先出の徹底。アレルギー食の動線分離。手洗い時間の標準化。残食の毎日記録。
所長はぱらぱらと頁をめくった。
そして、長く息を吐いた。
「茜ちゃん、君、こんなこと考えてたの」
「いえ、これもう、私が毎朝ひとりでやってきていたことの、まとめです」
「ひとりで?」
「はい」
「全部?」
「はい」
「桐生さんは、これに関わってなかったってこと?」
「桐生先輩のことはもう、いいです」
所長はぐっと口を、結んだ。
「茜ちゃん、ごめんな」
「いえ」
「俺たち、ずっと君に甘えてた」
「甘えてた、ことには、なりますね」
「君が自分からこれを出してきたっていうことは、君もちゃんとこちらに参加したいってことだよな」
「はい」
「分かった。来週の職員会議で、正式に提案する」
所長はファイルを、両手で、受け取った。
その日の昼、献立の煮物の最終確認をしながら、私はノートをもう一度、開いた。
頁の余白に、新しく一行書き加えた。
『私の手は私のものですが、私だけのものではありません』
書き終えてから、私はしばらくその字を眺めた。
あちらの世界で、私がレイノルドや砦長や書記の老人や副料理長や、たくさんの人たちと、一緒に、作った、七つの大鍋。
その記憶が、こちらの世界の、ふつうの給食センターの厨房で、ふっと温かく蘇った。
私は向こうの世界へもう行けない。
でも、向こうで私が残したノートの写しは、向こうの誰かが毎朝開いているはず。
そして、こちらの世界でも、私のノートを、私と、若い同僚と、ベテランの女の人と、所長がこれから、開いていく。
二つの世界の、二つのノートが、これから、同じ、当たり前の、手順を、伝え続けていく。
夕方、洗い場の床を、磨きながら、私はふと笑った。
誰も、見ていない、ともう思わなかった。
誰かが必ず見ている。
たとえそのとき誰もいなかったとしても、いつか誰かが、磨かれた床に気づく。
その「いつか」のために、私は今日も続ける。
とん、とんとん。
厨房の隅で、若い同僚が、人参を刻んでいた。
その音が、私の音と同じリズムを刻んでいた。




