第二十一章 冷たい水の音
最初に戻ってきたのは、音だった。
点滴の、ぽたんという規則的な音。
その奥に、誰かが廊下をゆっくり歩く足音。
そして、自分の息の音。
目を開けたとき、白い天井が私を見ていた。
病室の蛍光灯は薄く点いているだけで、外はたぶん、夜明けに近い時間だった。
体が重い。
手をわずかに動かそうとして、気づいた。
左手の指に点滴の針が刺さっていた。
右手は、布団の上に置かれていた。爪の脇のあかぎれは相変わらずだった。指先の皮が薄く剥けていた。
その手を、私はしばらく見つめた。
見覚えのある、私の手だった。
夢だったのだろうか。
いや、夢ではなかった。
胸の奥にまだ、丘の中腹の風の匂いと湯気の重さと、銀のスプーンの冷たさが残っていた。
頬を、涙が伝った。
涙は、温かかった。
病室の扉が、ノックの音とともに開いた。
「梨原さん、お目覚めですか」
看護師さんだった。三十代くらいの、目尻に皺のある優しそうな女の人。
「はい、すみません」
「謝らないでくださいね。よく頑張りました」
彼女は点滴を確認しながら、簡単に状況を説明してくれた。
配送便が、信号無視のトラックと衝突。私は助手席でシートベルトをしていなかったため、頭を打った。意識が戻らないまま、一週間。今日が八日目の朝。
「運転手さんは」
「軽傷です。退院されました」
「よかった」
「梨原さん、心配されていましたよ」
看護師さんはにっこり笑った。
私は頷いて、そしてもう一度自分の手を見た。
病院の廊下で、誰かが駆けてくる音がした。
病室の扉が、勢いよく開いた。
「茜さん」
給食センターの若い同僚だった。
名前は、いつも私を心配してくれていた二十二歳の子。私の三つ下で、入って二年目のまだ慣れない手つきで包丁を握る、まじめな子だった。
彼女は私を見るなり、両手で口を押さえた。
「茜さん、よかった」
「あの、ごめんね、ご心配かけて」
「謝るのは、こっちです」
彼女はベッドの脇にしゃがみこんだ。
その目から、ぼたぼたと大粒の涙がこぼれた。
「茜さん、いなくなったら、私、本当にどうしていいか分からなくて」
「私、ただぶつかっただけだから」
「ぶつかっただけって、八日も起きなかったんですよ」
「ああ、そうか」
「茜さんいつも、自分のこと、ぶつかっただけ、転んだだけって言うんですよね」
彼女は洟を啜った。
私は彼女の頭に、布団から伸ばした右手を、そっと置いた。
その瞬間、彼女はわっと声を上げて泣いた。
「茜さんがいない給食センターで初めて、桐生先輩のこと、私、嫌いだって所長に言いました」
「そう」
「そうしたら、いろんな人が私と同じこと、思ってたって、わかって」
「そう」
「桐生先輩、検品票の改ざんと業者からのリベートの件で、本社の調査が入って」
彼女は洟を啜りながら続けた。
「異動になりました。市内じゃなくて、隣の県の別の事業所に」
私はしばらく、何も言えなかった。
胸の中で、奇妙な静けさが広がった。
桐生先輩。何年も私の手を、自分のものにしてきた人。
私がたった一週間いなくなった、その隙に。
誰かに復讐されたわけではない。
ただ、誰かがもう我慢できなくなって、声を上げた。それがたまたま、彼女だった。
「茜さんがいたから、私たち、桐生先輩のこと、見ないふりができてたんだと思います」
「私がいた、から」
「茜さんがぜんぶ、引き受けてくれてたから」
彼女は私の手を握った。
「もう、引き受けないでください」
「うん」
「茜さんが洗い場の床を毎日磨いてること、私、ずっと見てましたから」
「うん」
「私たち、ちゃんと、続けます」
彼女の声は震えていた。
でも、そこには、私の知らない、彼女の強さがあった。
彼女はベッドの隣の、私の鞄を引き寄せた。
「これ、目が覚めたとき枕元に置かれてました。看護師さんも、私も、誰が持ってきたか分からなくて。でも、茜さんの大事なものだろうって、ずっと枕元に並べてあったんです」
茶色の表紙の、古い、料理ノート。
私の祖母の、そして私の。
「ありがとう」
「茜さん、ノートの最後の頁、見ました」
「あ」
「すみません、勝手に」
「いえ、いいよ」
「茜さんの字、ありました」
『下処理は、世界を作ります』
『私はただの調理補助です。だからこそ、仕込みができます』
その二行が、確かに、こちらの世界のノートにも、書かれていた。
あの世界で、私が書いた字がこちらにも戻ってきていた。
彼女は、ノートの裏表紙を私に見せた。
「茜さん、ここ」
裏表紙の内側の隅。
そこに、私の知らない別の字で、小さく書き加えられていた。
『ありがとう』
私の字でも祖母の字でもない、まったく見覚えのない、丁寧な女の人の字。
桐生先輩の字ではなかった。
古い文字を読み解いた書記の老人の字に、似ていた。
いや、それも違う気がした。
でも誰かが確かに、このノートにお礼を書いていた。
誰かに、私の仕込みは届いていた。
二週間後、私は退院した。
駅のホームで電車を待ちながら、私はもう一度自分の手を眺めた。
爪の脇のあかぎれは、入院中に少し治りかけていた。
それでもまだ、私の手だった。
給食センターに復帰する日の前夜、私はノートを机の上に開いた。
最後の頁の自分の字を、もう一度なぞった。
翌朝、午前四時半に目が覚めた。




