表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界転生した調理補助員、地味な仕込みで世界救って元の厨房に帰ります  作者: もしものべりすと


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/24

第二十一章 冷たい水の音

最初に戻ってきたのは、音だった。


 点滴の、ぽたんという規則的な音。


 その奥に、誰かが廊下をゆっくり歩く足音。


 そして、自分の息の音。


 目を開けたとき、白い天井が私を見ていた。


 病室の蛍光灯は薄く点いているだけで、外はたぶん、夜明けに近い時間だった。


 体が重い。


 手をわずかに動かそうとして、気づいた。


 左手の指に点滴の針が刺さっていた。


 右手は、布団の上に置かれていた。爪の脇のあかぎれは相変わらずだった。指先の皮が薄く剥けていた。


 その手を、私はしばらく見つめた。


 見覚えのある、私の手だった。


 夢だったのだろうか。


 いや、夢ではなかった。


 胸の奥にまだ、丘の中腹の風の匂いと湯気の重さと、銀のスプーンの冷たさが残っていた。


 頬を、涙が伝った。


 涙は、温かかった。


 病室の扉が、ノックの音とともに開いた。


「梨原さん、お目覚めですか」


 看護師さんだった。三十代くらいの、目尻に皺のある優しそうな女の人。


「はい、すみません」


「謝らないでくださいね。よく頑張りました」


 彼女は点滴を確認しながら、簡単に状況を説明してくれた。


 配送便が、信号無視のトラックと衝突。私は助手席でシートベルトをしていなかったため、頭を打った。意識が戻らないまま、一週間。今日が八日目の朝。


「運転手さんは」


「軽傷です。退院されました」


「よかった」


「梨原さん、心配されていましたよ」


 看護師さんはにっこり笑った。


 私は頷いて、そしてもう一度自分の手を見た。


 病院の廊下で、誰かが駆けてくる音がした。


 病室の扉が、勢いよく開いた。


「茜さん」


 給食センターの若い同僚だった。


 名前は、いつも私を心配してくれていた二十二歳の子。私の三つ下で、入って二年目のまだ慣れない手つきで包丁を握る、まじめな子だった。


 彼女は私を見るなり、両手で口を押さえた。


「茜さん、よかった」


「あの、ごめんね、ご心配かけて」


「謝るのは、こっちです」


 彼女はベッドの脇にしゃがみこんだ。


 その目から、ぼたぼたと大粒の涙がこぼれた。


「茜さん、いなくなったら、私、本当にどうしていいか分からなくて」


「私、ただぶつかっただけだから」


「ぶつかっただけって、八日も起きなかったんですよ」


「ああ、そうか」


「茜さんいつも、自分のこと、ぶつかっただけ、転んだだけって言うんですよね」


 彼女は洟を啜った。


 私は彼女の頭に、布団から伸ばした右手を、そっと置いた。


 その瞬間、彼女はわっと声を上げて泣いた。


「茜さんがいない給食センターで初めて、桐生先輩のこと、私、嫌いだって所長に言いました」


「そう」


「そうしたら、いろんな人が私と同じこと、思ってたって、わかって」


「そう」


「桐生先輩、検品票の改ざんと業者からのリベートの件で、本社の調査が入って」


 彼女は洟を啜りながら続けた。


「異動になりました。市内じゃなくて、隣の県の別の事業所に」


 私はしばらく、何も言えなかった。


 胸の中で、奇妙な静けさが広がった。


 桐生先輩。何年も私の手を、自分のものにしてきた人。


 私がたった一週間いなくなった、その隙に。


 誰かに復讐されたわけではない。


 ただ、誰かがもう我慢できなくなって、声を上げた。それがたまたま、彼女だった。


「茜さんがいたから、私たち、桐生先輩のこと、見ないふりができてたんだと思います」


「私がいた、から」


「茜さんがぜんぶ、引き受けてくれてたから」


 彼女は私の手を握った。


「もう、引き受けないでください」


「うん」


「茜さんが洗い場の床を毎日磨いてること、私、ずっと見てましたから」


「うん」


「私たち、ちゃんと、続けます」


 彼女の声は震えていた。


 でも、そこには、私の知らない、彼女の強さがあった。


 彼女はベッドの隣の、私の鞄を引き寄せた。


「これ、目が覚めたとき枕元に置かれてました。看護師さんも、私も、誰が持ってきたか分からなくて。でも、茜さんの大事なものだろうって、ずっと枕元に並べてあったんです」


 茶色の表紙の、古い、料理ノート。


 私の祖母の、そして私の。


「ありがとう」


「茜さん、ノートの最後の頁、見ました」


「あ」


「すみません、勝手に」


「いえ、いいよ」


「茜さんの字、ありました」


『下処理は、世界を作ります』


『私はただの調理補助です。だからこそ、仕込みができます』


 その二行が、確かに、こちらの世界のノートにも、書かれていた。


 あの世界で、私が書いた字がこちらにも戻ってきていた。


 彼女は、ノートの裏表紙を私に見せた。


「茜さん、ここ」


 裏表紙の内側の隅。


 そこに、私の知らない別の字で、小さく書き加えられていた。


『ありがとう』


 私の字でも祖母の字でもない、まったく見覚えのない、丁寧な女の人の字。


 桐生先輩の字ではなかった。


 古い文字を読み解いた書記の老人の字に、似ていた。


 いや、それも違う気がした。


 でも誰かが確かに、このノートにお礼を書いていた。


 誰かに、私の仕込みは届いていた。


 二週間後、私は退院した。


 駅のホームで電車を待ちながら、私はもう一度自分の手を眺めた。


 爪の脇のあかぎれは、入院中に少し治りかけていた。


 それでもまだ、私の手だった。


 給食センターに復帰する日の前夜、私はノートを机の上に開いた。


 最後の頁の自分の字を、もう一度なぞった。


 翌朝、午前四時半に目が覚めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ