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異世界転生した調理補助員、地味な仕込みで世界救って元の厨房に帰ります  作者: もしものべりすと


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第二十章 銀の月の下で

王都が落ち着くまで、私は丘の中腹で三日を過ごした。


 最初の日は、城壁の中の人々の救護。倒れていた人々に、温かい粥を運び、井戸の安全を確認し、食器を煮沸した。城壁の外の難民は、徐々に城壁の中へ、自分の家へ、戻っていった。


 二日目は、王宮の厨房の修復。神殿が貼った「未浄」「禁域」の紙を、私はもう剥がさなかった。それは、新しい料理長と副料理長の仕事だった。私は必要なものを伝えただけだった。


「新しい料理長殿、まな板の色分けを、これからもお願いします」


「ええ、もちろん」


「在庫表は、毎日、確認してください」


「ええ」


「献立は回るかどうかで、判断してください。残食を、毎日、記録してください」


「分かりました」


 三日目、私は王宮の屋上に、レイノルドと並んで、立っていた。


 夜だった。


 月が、銀色に、薄く街を照らしていた。


 城壁の中はまだ、復興の途中で、点々と火の灯りが見えた。けれどもう瘴気はなかった。空気は、冬の冷たさだけを、運んでいた。


「アカネ」


「殿下」


「君は、明日の夜明けに、儀式の代償を、受けることになる」


「はい」


「神殿の古い書には、儀式を執り行った者は『生まれた場所』に戻ると書かれている」


「私の生まれた場所は、向こうの世界です」


「そうだ」


 彼は欄干にもたれ、街を見下ろした。


「アカネ。私は君に、一度だけ、頼みたいことがある」


「はい」


「君が、こちらに、残るという選択肢はないだろうか」


 その問いは、予想されたものだった。


 でも、私の中で、揺らがなかった。


「殿下。私は向こうの世界にまだ、やり残したことがあります」


「やり残したこと」


「私の祖母のノートを、向こうの誰かに、伝えることです」


「向こうの誰か」


「給食センターに、一緒に働いていた、若い同僚がいるんです。彼女は私のことを、いつも気にかけてくれていました。私が消えたら、彼女がずっと心配し続けると思います」


「君が、戻ることが、その人を救う」


「救う、ほどではないかもしれません。でも、あの場所には、私がいていい場所があります」


 彼は深く頷いた。


「分かった」


「殿下」


「ああ」


「私はこちらの世界が、嫌いではありません」


「そうか」


「むしろ、初めて、自分の手の動きを、誰かが見ていてくれた、と思える場所でした」


 私は彼の方を見た。


 彼の横顔は、月の光で、半分だけ、青白く照らされていた。


「殿下が最初に、私の手の動きを、見てくれました」


「ああ」


「だから、私はこちらに来た意味が、あったと思っています」


「アカネ」


「殿下」


 彼は私の方に、向き直った。


 そして、深く息を吐いた。


「君がいない人生は、考えられないと、言いたい気持ちはある」


「はい」


「でも、君に、それを押し付けたくない」


「殿下」


「君は、君の場所で、君の続きを、するべきだ」


 彼は私の手を取った。


 冷たくない、温かい、骨ばった手だった。


「君のノートを、こちらにも、残してくれ」


「はい」


「写しを、王宮の書庫に、保管する。古代救済式の前文の隣に、君の手書きで、置きたい」


「分かりました」


 その夜、私は王宮の書庫で、ノートの写しを作った。


 書記の老人と、副料理長と、新しい料理長が私の隣に座って、私の字を、ひとつずつ丁寧に、写していった。


 最後の頁、私自身が書いた二行。


『下処理は、世界を作ります』


『私はただの調理補助です。だからこそ、仕込みができます』


 その二行を、副料理長が震える手で、写した。


「アカネ。これを、毎朝、厨房の入口で、新人に読ませる」


「はい」


「お前の続きを、こちらでも、続ける」


「はい」


 書庫の窓から、夜明け前の薄明かりが、差し込み始めた。


 私はノートを閉じた。


 写しは、こちらの世界に残る。書記の老人は、不思議そうに、ノートを撫でながら呟いた。

「アカネ、書写しているうちに、気づいたことがある。お前の手で写した字が、もう一冊のノートにも、薄く浮かんでいる。二冊が、互いに通じている」

 私は何も言えなかった。

 あちらの世界に残ったノートと、私が向こうへ持ち帰るノートは、同じ言葉を分け合うらしかった。一冊に書けば、もう一冊にも、いつか同じ言葉が現れる。


 二つの世界の、二つのノートが、これから同じ手順を伝え続けていく。


 書庫を出る前に、レイノルドが最後に、私の前に、立った。


「アカネ、最後に一つ、聞きたい」


「はい」


「君の、その手は、いつから、洗っていた」


「子供の頃、祖母の隣で」


「祖母はもう、いないんだろう」


「いません」


「では、君が、祖母の場所に、いるんだな」


 私は頷いた。


「向こうの世界でも、こちらの世界でも、君は、誰かの祖母になる」


「祖母」


「血のつながりではなく、続ける人として、だ」


 彼は深く笑った。


 その笑顔は、私が初めて出会った、銀のスプーンを見つめていた頃の、孤独な彼の笑顔と、対になる、温かい笑顔だった。


 夜明け前、丘の中腹で、私は一人、立っていた。


 神官団も、砦長もレイノルドもすこし離れた場所で、私を見ていた。


 誰も、近づかなかった。


 私はノートを、胸の前で、抱えた。


 空が、東のほうから、白く、滲み始めた。


 最初の光が、丘の上に、差した。


 光が、私の体を、ゆっくりと、包んだ。


 体が軽くなる。


 ノートだけは、確かに、私の腕の中に、あった。


 最後に、レイノルドの方を見た。


 彼は片手を挙げて、私に、手を振った。


 砦長が深く頭を下げた。


 書記の老人が、ノートを胸に、片手を当てた。


 副料理長がまな板を抱えていた。


 新しい料理長が神殿の祝福ではなく、料理人としての一礼を、私に向かって、した。


 光が、強くなった。


 私の視界が、白く、溶けた。


 最後に、聞こえたのは、王都の鐘の、長い、低い、音だった。

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