第十九章 七つの大鍋に火を入れる
イレーナは地面に片手をついた。
彼女の周りの枯れ草が、急速に白く乾いていく。彼女の体から、今までよりも濃い黒い煙が立ち昇り始めた。
「アカネ、最後にひとつ、聞かせて」
「はい」
「あなたが続けてきた『仕込み』は、本当に誰のためのものだったの」
その問いは、これまでの私をゆっくりと振り返らせた。
給食センターの早朝。誰のために私はまな板を分けたのか。誰のために缶の膨らみを記録したのか。誰のために洗い場の床を磨いたのか。
答えは、すぐには出なかった。
でもいま、確かに答えがあった。
「私のためです」
「自分のため、だけ」
「私が毎朝自分の手で、何かを作っていると、そう信じるためです」
「自己満足ね」
「はい。でも、結果として誰かが、お腹を壊さずに暮らしていける」
「それで、十分なの」
「十分です」
イレーナは黒い煙を、深く吸い込んだ。
「私は誰かに、認められたかった」
彼女の声が、急に人間のものに戻った。
「神殿に拾われたとき、私は孤児だった。聖女と呼ばれて初めて、自分が役に立つ人間だと思えた」
「そうですか」
「でも、聖女としての価値は、ずっと誰かが私に与えるもので、私自身のものではなかった」
私は何も言わなかった。
「あなたは最初から自分の手で、自分の価値を作っていた」
「私は自分の価値が低いと思っていました」
「それでも、続けていた」
「はい」
彼女は薄く笑った。
「私が魔族の眷属になったのは、その『誰かに認められたい』という気持ちを、奴らが利用したからよ」
「分かります」
「分かるの」
「私もここでなくて、向こうの世界で桐生先輩にもう少し褒めてもらえていたら、何かを間違えたかもしれません」
彼女の目から初めて、ひと粒、涙が落ちた。
そして、その涙が地面に落ちる前に、黒い煙に変わって消えた。
「アカネ。やっぱりあなたとは、戦えないわね」
「はい」
「最後に、お願いがあるの」
「なんでしょう」
「儀式を、最後まで続けて」
「はい」
「私の中の魔族の核を、その鍋で煮溶かして」
「はい」
彼女はふらりと立ち上がり、自ら中央の鍋へ近づいた。
神官団が駆け寄ろうとしたが、年長の神官が両手を広げて止めた。
「下がりなさい」
「しかし」
「聖女様の、最後のご決断だ」
イレーナは中央の鍋の前に立ち、両手を湯気の上に、翳した。
黒い煙が彼女の手から、ゆっくりと鍋の中へ吸い込まれていった。
中央の鍋の中で、湯が深い金色に変わった。
脇の六つの鍋も、それぞれの色を強めた。赤、緑、青、白、紫、橙。
七色の湯気が、丘の上で混ざりあった。
光の柱が、空へ立ち昇った。
王都の城壁の中の黒い靄が、急速に晴れていった。
城壁の外の難民たちが、丘を見上げた。誰かが最初にひざまずいた。次にまた誰かが続いた。
でも私はひざまずく彼らに、声をかけた。
「立ってください。これは儀式じゃなくて、料理です」
誰かが、笑った。
誰かが、泣いた。
長い長い湯気の柱が、空に届いた。
光が王都全体に、降り注いだ。
建物の屋根の上に積もっていた灰のような瘴気が、雪解けのように流れて消えていった。
石畳の上で倒れていた人々が、ゆっくりと息を取り戻していった。
城壁の鐘が長く鳴った。
夕日が、丘の中腹を橙色に染めた。
私は最後に、中央の鍋の温度を確認した。
「火を、止めてください」
「は」
「全鍋、火を落とす。でも残った湯気が消えるまで、誰も鍋に近づかないでください」
「了解」
兵士たちが、火を引いた。
七本の湯気の柱が、ゆっくりと薄れていった。
最後の湯気が空に消えたとき、丘の中腹に深い静けさが降りた。
誰も何も言わなかった。
誰かのすすり泣きだけが、わずかに聞こえた。
イレーナの長衣だけが、中央の鍋の隣に白いまま残されていた。
彼女の体はもうなかった。
長衣の上に、神官団の年長の者が深く頭を下げた。
「聖女様。最後に人として、お逝きになりました」
彼の声は震えていた。
神官団の何人かは、長衣の前でひざまずいた。
私はノートを閉じた。
頁の最後に、手順書の最終工程の脇に、もう一行書き加えた。
『火を止める前に、温度を必ず確認すること』
書き終えてから私は初めて、自分が震えていることに気づいた。
膝が勝手に折れる。
倒れる前に、後ろから誰かが私を支えた。
レイノルドだった。
「アカネ」
「殿下」
「君は本当に、世界を救った」
「料理しただけです」
「そうだな」
彼は私の肩を抱えた。
夕日が、丘の上で長く影を落とした。
遠くで、王都の鐘がまだ鳴っていた。




