第十八章 偽の聖女と本物の下女
中央の鍋に最初の素材が、ゆっくりと投入された。
検品済みの清水をもう一杯加える。塩を、計量済みの分量で撒く。香草を、束のまま沈める。
白い湯気が、ぐっと強くなった。
脇の六つの鍋にも、私の合図に合わせて順々に素材が投入されていく。
誰一人、勝手な手出しをしなかった。
書記の老人が、検品台で一つずつ印を押していった。
イレーナの背後で、低い声がした。
「聖女様。これは、神殿の祝福と別の様式の儀式です」
「分かっているわ」
「我々は、神殿の儀式を護るために、ここに」
神官のひとりが震える声で言った。
「下女の儀式に加担するのは、戒律に反します」
「黙りなさい」
イレーナは振り返らずに言った。
神官団の若い者の中に、わずかな動揺が広がった。
彼らは聖女の指示を受けて、丘の上まで上ってきた。けれど、ここで起きていることを見て初めて、自分たちの儀式と私の仕込みを、比較し始めていた。
白い湯気が、王都の方角へ、流れる。
城壁の中に薄く、変化が見え始めた。
黒い靄がゆっくりと退いていた。
「アカネ、城壁の外から瘴気が引き始めています」
兵士が興奮した声で報告した。
「中央鍋、温度を半分に下げてください」
「は」
「第三鍋、強火を維持。第五鍋、火を弱めて湯気を多くしてください」
「了解」
私はノートを開いたまま、頁を一枚ずつめくっていった。
祖母の絵。書記の老人と一緒に解読した古代救済式の手順。私が砦で書いた、現代の検品票への置き換え。
頁をめくるたびに、丘の七つの鍋が、それぞれの工程を忠実になぞっていく。
午後の遅い時間、イレーナの体が明らかに揺れた。
「アカネ」
彼女はふらりと半歩前に出た。
「あなたの仕込みは、神殿の儀式の模倣にすぎないわ」
「そうかもしれません」
「神殿の祝福が、本物よ」
「はい、そうかもしれません」
「だから、止めなさい」
彼女の声が、不意に薄くなった。
肌の灰色が、こめかみのあたりまで広がっていた。
神官団の中の、年長の者が声を出した。
「聖女様、お顔を……」
「黙れ」
彼女は片手を振った。
その手の指先が、わずかに黒く光った。
「アカネ、最後の警告よ。ノートを渡しなさい」
「いいえ」
「あなた、自分のしていることが分かっているの」
「分かっています」
私は振り返って火組を見た。
「全鍋、合わせ工程の第二段階に入ります。中央鍋に、各鍋から一杯ずつ注いでください」
「は」
兵士たちが、それぞれの鍋から長柄の杓で一杯ずつ、中央の鍋に慎重に注いだ。
中央の鍋の表面に、七色の油膜が薄く広がった。
白い湯気が急に立ち昇った。
風が丘の中腹で、回り始めた。
王都の城壁の中から、低く長い音が響いた。
石が震えるような、地鳴りに近い音だった。
イレーナが片膝をついた。
「殿下、聖女様が」
神官のひとりが駆け寄った。
でも彼女は、その手を振り払った。
「触らないで」
彼女の声が、もはや女のものではなかった。
低く嗄れて、複数の声が重なっているような奇妙な音。
「アカネ、あなたは私を知らない」
「はい、知らないです」
「私は長く長く待っていた」
「何をですか」
「神殿の儀式を、内側から変質させるための『触媒』を」
彼女は私を見上げた。
「あなたが、そうだった」
「私は違います」
「いいえ。あなたの仕込みの手順は、神殿の儀式とほぼ同じ。だから神殿は、あなたの存在を利用できた」
「利用ですか」
「あなたが王宮の厨房に来てくれたから、私は『聖化の儀』として、あなたの手順を神殿の祝福に流用できた」
私はノートを胸の前で強く抱えた。
「あなたが祝福と称して撒いていた瘴気は、私の仕込みを悪用したものだったのですか」
「悪用というか、転用ね」
イレーナは薄く笑った。
肌の灰色が、もう彼女の顔の半分を覆っていた。
「アカネ、あなたが王都を救おうとすればするほど私は強くなる」
「それは、もう終わりです」
私は書記を振り返った。
「書記様、最終工程の手順を読み上げてください」
「は」
書記の老人が手順書を朗読した。
「『中央鍋を七色に揃え、合わせの祈りを唱う。祈りは、料理する者の名と料理を食う者の名を、ひとつずつ呼ぶこと』」
「料理する者と、料理を食う者の名前」
「料理の本来の祈りは、誰かのために、誰かが作る、ということだ」
私は頷いた。
深く息を吸った。
「私の名は、梨原茜です。祖母の名は、梨原ふじ。私の祖母の祖母から続く、台所の女たちの名です」
私は続けた。
「料理を食う、王都の二千の人の名前を、私は知りません。でも、その人たちが、誰かに、何かを食べさせている人たちであることは、知っています」
白い湯気が、私の声に合わせて、丘の上に、立ち昇った。
イレーナが私を見上げた。
彼女の瞳の奥に、初めて、何かが揺れた。
「アカネ、あなたは、本当に、何者でもないのね」
「はい」
「何者でもないものに、私は敗ける」
彼女の体がぐらりと傾いた。




