第十七章 七つの大鍋
イレーナは私の前で立ち止まった。
彼女の白い長衣の裾が、私の足元の枯れ草の上で揺れた。けれども、彼女の足元の地面の色は、明らかに変色していた。淡い灰色。歩いた跡が、霜のように、白く乾いて死んでいた。
「アカネ、お久しぶりね」
「聖女様」
「あの夜以来かしら。ちゃんと、辺境で大人しくしていればよかったのに」
彼女の声は舞踏会のときと変わらず、明るく軽い。
でも、瞳の奥は、底のない井戸を覗き込んでいるような、奇妙な深みがあった。
「あなた、何を始めたつもり?」
「儀式です」
「儀式」
彼女はくすくす笑った。
「下女ふぜいが、儀式を執り行う? 神殿のある国で、神官の冠もない者が?」
「冠は必要ありません」
「ふぅん」
彼女は私の周りを、ゆっくりと歩いた。
神官団の十二人が私たちを取り囲むように扇形に展開した。砦長の兵士たちが、それを警戒して位置を取り直す。
でも、誰も、剣を抜かなかった。
ここで戦闘になれば、儀式が止まる。それは、両者とも、避けたかった。
「アカネ、私はあなたに、優しいことを言いに来たの」
「優しいことですか」
「あなたが王都に持ってきた『仕込みの手順』、私がきちんと神殿の儀式として完成させてあげる」
彼女はにっこりと笑った。
「あなたは、ノートを私に渡して、丘を降りるだけ。そうすれば、誰も傷つかない。あなたは故郷へも、無事に帰れる」
「故郷」
「ええ。あなたが本当はどこから来たのか、私は知っているのよ」
彼女は頭をわずかに傾げた。
「同じ顔の女が、向こうの世界にいるでしょう?」
私は息を止めた。
「あなたとあの女は、同じ魂の二つの面。わたしたち魔族の眷属には、ああいう類いの『写し』を、ときどき見つけることができるの」
「桐生先輩は、あなたの仲間なのですか」
「いいえ。彼女は何も知らない普通の女よ。でも、彼女を通じて、私はあなたを観察していた」
「私をですか」
「あなたは、いい『触媒』になりそうだったから」
彼女は私の顔の前で指を一本立てた。
「真面目で、地味で、誰にも認められず、それでも、怒らない女。そういう人間は、扱いやすいの。期待されたいから、ちょっと褒めれば、何でも差し出してくれる」
私はノートを胸の前で抱えた。
彼女の言葉が、私の中の何かに、確かに、刺さった。
給食センターの早朝。誰にも見られない場所で、ただ手を動かしていた、あの私。
私は本当は、誰かに見てほしかったのかもしれない。誰かに認められたかったのかもしれない。
でも、そう思って続けてきたわけではない。
「聖女様」
「なに」
「私は誰にも認められなくても、続けてきました」
「あら、強がっちゃって」
「強がりではないです」
私はノートを開いた。
最後の頁の、自分の字を彼女に見せた。
『下処理は、世界を作ります』
『私はただの調理補助です。だからこそ、仕込みができます』
「これは、私が自分のために、書きました。誰にも見せるためじゃなくて、自分が、自分のことを、認めるために、書きました」
イレーナの笑みがわずかに固まった。
「下女が、いっちょまえに、自尊心の話をするのね」
「はい」
「そういう女ほど、簡単に折れる」
「折れません」
私は彼女の目をまっすぐ見た。
桐生美波先輩の目だった。
でもいま、私はこの目を怖いと思わなかった。
「私は私の仕事を、世界の誰かに認めてもらいたかったわけではありません」
「じゃあ、なぜ、続けたの」
「祖母が、続けていたからです」
その答えは、自分でも意外だった。
言葉にした瞬間、初めて、その意味が、自分の中で像を結んだ。
祖母は、寺の小さな台所で、誰にも褒められなかった。寺の住職は厳しく、檀家は気まぐれで、家族は祖母の仕事を「家事の延長」としか見ていなかった。
それでも祖母は、毎朝、同じ手順で、料理を作った。
誰のためでもない。
誰のためでもないからこそ、続いた。
私は祖母の続きを、やっているだけだ。
「聖女様。私は儀式を、止めません」
「アカネ、最後の警告よ」
「警告は要りません」
彼女の顔から、笑みが、すっと消えた。
代わりに、口の端から、薄く黒い煙が立った。
神官団の何人かが、後ずさった。
「聖女様」
「殿下、お下がりを」
神官のうち、若い数人が、聖女の異変を見て、明らかに動揺していた。
砦長の兵士たちが、剣の柄に手をかけた。
「動くな、誰も動くな」
私は両手で制した。
「ここで戦えば、儀式が止まります」
「アカネ」
砦長が私の名を呼んだ。
「私、続けます。火組、温度の確認を」
「は、第三鍋、温度安定」
「第六鍋、温度上昇中」
「中央鍋、沸騰維持」
私は振り返らずに、各組に指示を出した。
イレーナの背後で、彼女の体がわずかに揺れた。
「アカネ、あなた本当に、私を無視するの?」
「無視ではないです」
「じゃあ、何」
「あなたの儀式を、私の仕込みで上書きします」
私は深く息を吸い、合図を出した。
「全鍋、合わせ工程に入ります。中央鍋から、順に、素材を投入してください」




