第十三章 料理ノートの真意
その日から、私は夜ごと、書記の老人と書庫で向き合うようになった。
燭台の灯りの下、革表紙の書と、祖母のノートを並べ、私たちは絵を一枚ずつ照らし合わせた。
「ここを見てくれ。古代救済式の前文の最初の頁だ」
老人が指差した絵は、両手を桶の水に浸けている人物だった。
「これは、手洗いですね」
「ああ。だが、絵の隅に、こう書いてある」
老人が古い文字を読み上げた。
「『穢れを纏いし者は、儀の場に近づくべからず。汝の手より始めよ』」
「うちの厨房の最初の決まりです。傷のある手、汚れた指で、食材に触れない」
「その次の頁、見ろ」
絵は、四枚の布を並べて、それぞれに違う食材を置いている。
「色分けの台ですね」
「『雑なる物を、混ぜるなかれ。獣と植物、生と熟、それぞれの場を分かつべし』」
「混ぜると、お腹を壊すから」
「お前は『穢れ』と呼ばず、『お腹を壊す』と呼ぶのだな」
老人は、しわの寄った口元で、薄く笑った。
「アカネ。古代救済式は、世界の瘴気を祓うために、巨大な仕込みを行う儀式だ。前文に書かれている動作は、すべて『仕込み』だ。検品、下処理、計量、火入れ。儀式の本体は、それらが揃って初めて、成立する」
私はノートの最後の頁を開いた。
『下処理は、ぜんぶの土台です』
祖母の字が、いつもと違って見えた。
「祖母は、これを、知っていたのでしょうか」
「分からん。だが、知らずに同じことをしていた、という方が、私には恐ろしい」
「恐ろしい」
「料理という営みが、世界のどこでも同じ手順で『瘴気を祓う』方向に進化しうるということだ」
私はノートを閉じた。
頁の表紙の、薄れた茶色が、燭台の光に揺れて、温かく見えた。
翌日、私は砦長に、書庫で見たものを話した。
「砦長。私のノートと、書庫の古い書が、ほぼ同じ手順を記しています」
「同じだと」
「古代救済式の前文と、料理の下処理が、同じ字で書かれていた、とも」
砦長は長く沈黙した。
「アカネ。それは、誰にも言うな」
「はい」
「言えば、神官団は、お前を生かしておかない」
「分かりました」
その夜、王都の方角の空がまた濃くなっていた。
灰色の靄は、いつのまにか、薄い黒に近づいていた。
兵士たちは、噂で済ませていた。
「王都が、変だ」
「悪い病が出ているらしい」
「神殿は何をしてる」
誰も、確かなことを知らなかった。
二日後、王都から、伝令の馬が、転がり込むように門をくぐってきた。
馬は、半ば失神していた。乗り手の兵士は、馬から降りる前に倒れた。
砦長と、私と、トーマスが駆け寄った。
「王都が……」
兵士は、震える声で最初の言葉を絞り出した。
「王都全体が瘴気に覆われています」
「いつから」
「七日前から。増え続けています。聖女様の祝福が、逆転したと、神殿の中でも噂が」
「逆転、というのは」
「祝福のはずの儀式が、瘴気を撒いているのです」
砦長が私を見た。
「アカネ、聞こえているな」
「はい」
「皇太子殿下からの、ご伝言だ。書状を、預かっている」
兵士が震える手で出した羊皮紙には、レイノルドの簡潔な文字があった。
『救済式が必要だ。だが、手順を知る者がいない。神殿が握っていた書は、聖女が焼いた』
書を、焼いた。
「アカネ。お前の祖母のノートが、頼みの綱だ」
砦長の声は低かった。
私はノートを胸の前で抱えた。
祖母の字が、自分の体温で、わずかに温かくなっていく気がした。
その夜、私は小部屋で、ひとりだった。
燭台の火は、ほとんど消えかけて、芯先がぽつりと赤く残っていた。
窓の外、王都の方角はもう、ただの黒い壁のようだった。
私の手はどうしてこの世界に来たのだろう。
偶然、と言うには、あまりに、合いすぎていた。
桐生先輩と同じ顔の聖女。
祖母のノートと、同じ手順の救済式。
私は誰かに、書かされてここにいるのか。
いや、と私は首を振った。
誰かに書かれているのではない。
私が自分で、ここまで歩いてきたのだ。
給食センターの底冷えのする厨房で、誰にも見られず、ただ手を洗い、まな板を分け、缶の膨らみを記録していた、あの一人ぶんの仕事がいま、ここに、私を立たせている。
私はノートの最後の頁を開いた。
空白の頁がまだ残っていた。
私は震える指で、初めて、自分の字を書いた。
『下処理は、世界を作ります』
書き終えてから、私は初めて、声を上げて泣いた。
石の壁が、私の声を低く反響させた。
誰にも聞かれない場所だった。
でも、初めて、誰かに聞いてほしいと思った。
翌朝、私は砦長の前に立った。
「砦長」
「ああ」
「王都へ、行きます」
「私も行く」
「兵士は、最低限で。荷物は、私のノートと、調理器具と、検品の布だけで」
「了解した」
その日の昼、私たちは北の砦を出発した。
砦の門のところで、トーマスが見送った。
「アカネ、無事に戻ってこい」
「はい」
「王都の連中に、調理補助の仕事を、見せてやれ」
彼は私の肩を強く叩いた。




