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異世界転生した調理補助員、地味な仕込みで世界救って元の厨房に帰ります  作者: もしものべりすと


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第十四章 王都に降る黒い雨

馬車三台、騎兵十人。砦長は最低限の供を選んだ。


 南へ下る街道は最初の二日、ただの冬の景色だった。枯れた草原、低い山並み、白く凍った川。けれど三日目の昼、空気がかすかに変わった。


 甘く、生臭い。腐った果実と、湿った布の匂いが混ざったような、不快な空気。


「瘴気の縁か」


 砦長が口元に布を巻いた。


 私も布を巻いた。隊の全員に、煮沸した水を含ませた布を配り、口元と鼻を覆わせた。


 道の両脇に、捨てられた村が現れ始めた。家畜が檻の中で死んでいた。井戸は黒く濁り、覆いの板は外れていた。


 四日目の夕方、王都の手前、最後の丘の上に、私たちは出た。


 眼下に、王都があった。


 白い大理石の街並みは、上から灰色の薄い膜が掛かったように見えた。塔の頂きまで黒い靄が登り、街路には人影がほとんど見えない。城壁の外には、急ごしらえの天幕がいくつも立っていた。難民の野営地らしかった。


「酷いな」


 砦長は長く息を吐いた。


 その天幕の一つから、痩せた青年が、こちらに向かって走ってきた。


「砦長殿、こちらへ。皇太子殿下がお待ちです」


 城壁の外、丘の中腹に、急ごしらえの天幕が張られていた。


 中に入ると、レイノルドが机の前に立っていた。


 顔は痩せ、頬骨が浮いていた。瞳の下には、深い隈が刻まれている。それでも、彼は私を見て最初に小さく息を吐いた。


「アカネ」


「殿下」


「ここまで、来てくれたか」


 私は彼に深く頭を下げた。


 彼は私の前に立ち、一度、目を閉じた。


「アカネ、君を辺境に送ったのは、私の力不足だ。すまない」


「殿下、その話はいまは」


「いや、先に言わせてくれ」


 彼は深く頭を下げた。


 皇太子が、下女に頭を下げる。


 天幕の中の家臣たちが、息を呑んだ。


「殿下、お顔を上げてください」


「君が、もし王都を救ったら、ますます私は君に頭が上がらない」


 彼は薄く笑った。


「アカネ、王都の現状を聞いてほしい」


 彼は地図を広げた。


「神殿の祝福の儀が、七日前を境に、瘴気を撒く方向に逆転した。最初は神官団も困惑していたが、今では儀式を続行することそのものが、街を覆う瘴気を増やしている」


「神官団は、儀式を、止めないのですか」


「止められない。聖女イレーナが儀式の中心におり、彼女が止めることを許さない」


「彼女は何者なのですか」


 レイノルドは深く息を吐いた。


「神殿の調査で、彼女は魔族の眷属だと判明した。聖女として国に取り入り、長い時間をかけて、神殿の祝福を内側から変質させていた」


 私は静かに頷いた。


「最初に皇太子殿下を毒殺しようとしたのも彼女の計画の一部ですか」


「そう思っている。私が早く倒れていれば、王都はもっと早く堕ちていた」


「殿下」


「アカネ、頼む」


 彼は私の手を取った。冷たい、骨ばった手だった。


「君のノートに、救済式の手順が、ある。神殿の書が焼かれた以上、頼れるのは君だけだ」


 私は静かにノートを取り出した。


 頁を開く。


 祖母の字、そして、最後の頁の私の字。


「殿下。これは、料理の下処理の手順です」


「分かっている」


「私はただの調理補助です。儀式を、執り行ったことはありません」


「君が、執り行えばいい」


 彼は私の手を握ったまま、続けた。


「神官団も、王ももう神殿の祝福には頼らない。いまから、王都を救う儀式は、君の手順で行う」


「私のですか」


「君のだ」


 天幕の外で、低い音が鳴った。


 風ではない。地鳴りに近い、低い音。


 砦長が天幕を出て、すぐに戻ってきた。


「殿下、街の中央広場の方角から、瘴気がさらに膨らんでいます」


「予定通りだ。彼女は儀式を強化している」


「我々の準備時間は」


「もう、ない」


 レイノルドは私を見た。


「アカネ。明日の夜明けに、儀式を始めたい。準備に、何が必要だ」


 私はノートを開き、頁を繰りながら、頭の中で計算した。


「七つの大鍋。火を別々に分けて、同時に火入れができる場所。検品済みの食材。塩、香草、根菜、肉、清水、酒、油。それぞれ別の人が運んできてください」


「数は」


「二千人分の量を、用意してください」


「二千」


「街の中の、生きている人たちすべてに、行き渡る量です」


 レイノルドの瞳が揺れた。


「分かった。砦長、丘の中腹を整地してくれ。鍋を七つ並べる場所を、すぐに作る」


「了解しました」


 その夜、私は天幕の中で、ノートを開いた。


 頁の余白に、明日の手順を、一つずつ書いた。


 検品。手洗い。色分け。下処理。計量。火入れ。最後の確認。


 給食センターで毎朝やっていたことと、何ひとつ、違わなかった。


 燭台の灯りに頁が薄く揺れていた。


 扉のところで、レイノルドが立っていた。


「眠れないか」


「殿下、こそ」


「明日のことを、考えていた」


 彼は私の前に座った。私はノートを少し開いたまま、彼に向き直った。


「アカネ。儀式の代償について、神殿の古い書に、記されていた」


「代償ですか」


「儀式を成功させた者は、世界から、かつていた場所へ、引き戻される」


 その言葉の意味が、すぐには、分からなかった。


「私は元の世界に、帰るのですか」


「君がもともといた場所、と書かれていた。私は君がここの人ではないと最初から思っていた」


「殿下、いつから」


「最初の毒見の日からだ。君の手の動きは、ここの人間のものではなかった」


 私はノートを閉じた。


「殿下」


「すまない、選ぶ前に、伝えておきたかった」


「私は選びます」


「アカネ」


「私は儀式をします」


 彼は目を伏せた。


「君を、止めるべきだろうか」


「殿下が止めるなら、私はもっと、止まれません」


 彼は長く笑い、それから、長く泣くのを我慢した。


 燭台の灯りが揺れた。

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