第十一章 辺境砦の薄いスープ
北の辺境砦に着いたのは、五日目の夕刻だった。
石組みの古い砦。城壁の表面はあちこち欠け、見張り塔の旗は色が褪せていた。大きな門をくぐると、土埃の臭いと、かすかな酸っぱい臭いが鼻についた。馬車を降りた瞬間、私は反射的に風上を確認していた。
砦長は四十代後半の屈強な男だった。日に焼けた肌、灰色になりかけた髪、左目の上に薄く古い傷。彼は王宮からの書状を一読し、私を上から下まで眺めた。
「アカネ。下女送りだそうだな」
「はい」
「砦には、お前を雇うほどの仕事はない。が、追い返すこともできん」
「厨房を、見せていただけますか」
砦長は怪訝そうに眉を寄せたが、肩をすくめて、私を厨房へ案内した。
砦の厨房は、正直、王宮の厨房よりもひどい状態だった。
床は粘ついた油で黒ずみ、桶の中の水は青白く濁っていた。保存肉は壁際の壁掛け籠に無造作に吊るされ、半分は黒ずみ、表面に薄く粉を吹いていた。根菜の樽は底が抜けかけ、井戸水を汲む手桶の柄には、緑色の苔のようなものが薄く乗っていた。
厨房に立つ料理人はひとり。瘦せた中年の男で、片足を引きずっていた。
「俺はトーマス。料理人だ」
「茜です」
「下女送りで、なんで厨房に来た」
「厨房の仕事しか、できないので」
トーマスは少し驚いたように、笑った。
「変わってるな」
「腐りかけている肉と、傷みかけている根菜と、それから、井戸水を、見せてもらえますか」
「順番に答えるのが面倒だな。全部、見ていけ」
私はその夜のうちに、砦の食料庫と井戸を確認した。
保存肉のうち、本当に食べられる状態のものは半分以下だった。表面の黒ずみは塩漬けの不全と空気との接触によるもの。粉状のものは塩の結晶と、その下に薄く広がっていたカビ。
根菜の樽は、底に水が溜まり、下半分が腐っていた。私は素手で触れず、布をあてがって状態だけ確認した。
井戸は、覆いの板が緩んでいて、上から土埃や枯れ葉が落ち込んでいた。汲んだ水を桶に取り、しばらく置くと、底に薄く茶色い沈殿物が溜まる。
「トーマスさん。砦の人たち、お腹を壊している人は最近多いですか」
「多いな。冬になってから、腹を下す者が増えた」
「井戸の水を、煮沸して、冷ましてから使ってください」
「その手間がねえから、生水で済ませてた」
「あと、肉の表面の黒ずみは削いで、内側だけ使ってください。粉が乗っているものは、捨ててください」
「捨てるって、何を食えばいい」
「明日、根菜の樽を全部開けて、生きているところと死んでいるところを選り分けます」
トーマスは私の顔をしばらく見ていた。
「お嬢さん、本当に下女か」
「はい」
「下女が、こんなことを言うのか」
「私はただ、そういう仕事を、ずっとしてきただけです」
その夜、私は与えられた小部屋で、ノートを開いた。
頁の余白に、砦の現状を箇条書きで書いていく。井戸の覆い、保存肉、根菜、食器、調理動線。動線は、特にひどかった。汚水を捨てる桶のすぐ横で、根菜を切る台が置かれていた。
翌朝、私は厨房の動線を組み直した。
汚水と、調理と、配膳の流れを、それぞれ一方向に設計し直した。砦の食堂は狭いが、桶の置き場所と作業台の位置を変えるだけで、汚れた水が清潔な作業台のほうへ流れない動線が作れた。
保存肉は、表面を削ぎ、薄切りにして塩水で軽く煮戻した。根菜は、生きているところを選り分けて、細かく刻み、温かいスープに仕立てた。
井戸の覆いを直し、汲んだ水は必ず一度沸かして、冷ましてから使うように決めた。
最初の夕食、薄いスープがテーブルに並んだ。
兵士たちは最初は不審そうに匙を口に運んだ。
砦長が最初に口をつけて、しばらく動かなかった。
「これは、何のスープだ」
「根菜と、保存肉の出汁です」
「同じ材料のはずだろう」
「同じ材料です。下処理が、違うだけで」
砦長はもう一口、ゆっくり飲んだ。
「兵士たちにも、これと同じものを出してくれ」
「はい」
彼は何も言わずに、自分のスープを最後まで飲み干した。
三日目の夕方、私はトーマスに小声で聞かれた。
「アカネ、お前、ここに居ついてくれるか」
「はい。私には、ここしか居場所がないので」
「分かった。砦長にも、そう伝えておく」
その夜、砦の見張りの兵士が、走って厨房に駆け込んできた。
「トーマス、医者を呼べ。村のほうで、人が血を吐いて倒れたらしい」
厨房の温度が、一気に下がった気がした。




