#18 隠しカメラ
弦は濡れたブレザーのポケットから、スマートフォンを取り出した。
何やらメッセージを確認しているのか、画面が淡い光を放つ。
「終わりだよ、兄さん」
律はゆっくり顔を上げた。
「……なんだい、急に」
「この家から追い出してやるよ。母さんみたいに」
その声は静かだった。
けれど、長年押し殺してきた憎悪が底に沈んでいる。
律が薄く笑う。
「まるで、僕が追い出したみたいに言わないでくれるかい」
そのとき、弦の手元でスマートフォンが震えた。
弦は迷いなくスピーカー通話へ切り替える。
『――もしもし、弦?』
聞こえてきたのは、如月の凛とした声だった。
『間に合ってよかったわね』
その言葉に、弦は眉をしかめた。
「どっちかっていうと、間に合ってないだろ」
如月はくすくす笑った。
緊迫した状況だというのに、どこか楽しげな声。
『途中で止めに入ったら、せっかくの証拠が台無しだと思って。私の判断、間違っていたかしら?』
止める?
証拠?
抱きかかえられたまま、零は弦を見上げた。
「それで、ちゃんと押さえたか?」
『当然じゃない』
如月は嬉々として答えた。
『誰が設置した監視カメラだと思ってるのよ』
その瞬間。
律の表情が、初めてはっきりと曇った。
「……監視カメラ?」
律がゆっくりリビングを見渡す。
壁際の観葉植物の陰。棚の装飾。天井近くの間接照明。
わずかな違和感を見つけ、律の目が細くなる。
手を伸ばしてみると――。
「……っ!」
律は小型カメラを掴み取り、床へ叩きつけた。
バキッ、と乾いた音。そのまま踵で踏み潰す。
『あーあ、律さん。そのカメラ高いんですよ。まぁ、私のお金じゃないからいっか』
如月が愉快そうに笑った。
『律さんが零くんを襲うところも、弦のお母様について語った内容も、しっかり言質いただきましたよ』
「データは全部クラウドに送信済みだ」
如月と弦の言葉に、律の動きが止まる。
「今日の父さんたちの会食、手配をしたのは兄さんだな」
「……」
「僕が修学旅行で不在のとき、兄さんが行動に移すことはわかっていた。零とふたりきりにある機会を、ずっと狙っていたんだろ?」
律は静かに前髪をかき上げた。
「それに、場所は零の部屋でも兄さんの部屋でもない、このリビング。……母さんと、同じようにな」
零の肩を抱く指が震えた。
『台風は予定外だったわね。あんなに焦った弦の顔は初めて見たわ』
「如月、うるさい」
台風で運行停止の可能性が出た時点で、弦はすぐ動いた。
途中の停車駅から、長距離タクシーで暴風雨の高速道路を数時間走って帰って来たのだ。
その間、如月は足止めされた新幹線の中から、監視映像をリアルタイムで確認していた。
必要なら、そのまま警察へ通報する準備まで整えていたのだ。
『録画したデータは、うまく加工してあげるわ』
如月の声が少しだけ真面目になる。
『零くんのプライバシーには配慮するから安心して。「決定的な自白」の部分だけを届けてあげる』
「頼む」
スピーカーから、発車を知らせる車内アナウンスが漏れ聞こえた。
『あ、やっと新幹線が動くって。私も早く帰りたいわ』
「如月、助かった」
『お礼はちゃんと、いただくわよ』
そこで通話が切れる。
「お礼って……?」
こんな時でも、如月との距離感に少しだけ嫉妬してしまう零。
それに気づいたのか、弦はバツが悪そうに視線を逸らした。
「如月――あぁ、そうか。セキュリティシステム会社のご令嬢か」
律は、まるでパズルの最後のピースが埋まったかのように呟いた。
「弦のお友達は優秀だね」
踏み砕いた監視カメラの破片を、一瞬だけ見下ろして笑った。
「父さんに知らせるってことかい?」
律がぽつりと呟くと、弦は迷わず答えた。
「母さんのことも、ちゃんと真実を理解してもらう。お前がこの家で何をしてきたか、すべてだ」
律は数秒黙り込み――やがて、小さく笑った。
「そっか」
律は床に落ちたジャケットを拾い上げる。
「さすがに怒られちゃうな、父さんに」
完璧だったはずの立場。
次期後継者という椅子。父親からの信頼。全部が崩れ始めていた。
だけど、その表情にはまだ緊迫感はなかった。
「ごめんって言っても、許してくれないよね」
「当然だ」
律はジャケットの中に、車のキーが入っていることを確認する。
「それなら……お望み通り、出て行ってあげるよ」
律はそう言って、静かに家から出て行った。
「……追わないのか?」
零が不安げに聞く。
弦は静かに首を横へ振った。
「必要ない」
「でも……」
「もう兄さんは終わりだ」
弦は冷えた声で言い切る。
「それより――」
弦は抱きしめた腕に力をこめた……。




