#16 嵐の夜
中間テストも終わった6月の中旬。
3年生は修学旅行で数日間不在だった。校内はやけに静かだ。
学校でも家でも、弦から一方的に呼び出されることもない。
あれほど嫌っていた弦の気配。支配。
強引に抱かれ、首筋に消えない痕をつけられていた日々。
それがない数日間は、零の胸に穴が開いたようでどうしようもなく落ち着かない。
――つまんねぇな。
今夜は弦が帰宅する。
それを心待ちにしている自分に、零は気が付いていた。
――重症だな、俺。
しかし、この日は都内に大型の台風が接近していた。
夕方になると、猛烈な雨風が神大寺の広大な敷地を襲い、不気味な唸りを上げていた。
「おかえりなさいませ、零様」
玄関で使用人が、タオルを持って出迎えてくれる。
「濡れた制服はクリーニングに出しますから、お着替えを済ませられたらお声がけください」
「あ、どうも……」
「旦那様方は本日、取引先との会食へ向かわれております。律様もご同行です」
「そうですか」
自室に向かおうとすると、2階へ上がりかけたとき、
「あの……」
振り向くと、使用人の女性が申し訳なさそうに零を見た。
「今日は早めに上がらせていただけますか?子どもがひとりで待っておりますので……」
神大寺家に勤めて長いという彼女の、母親としての切実な眼差し。
零は迷わず言葉を返した。
「すぐ帰って」
「ですが……」
「いいから。早く行ってあげて」
使用人を送り出し、大きな屋敷にひとり残される。
窓を叩く雨音は、時間が経つごとにその激しさを増していった。
◆◆◆
神大寺家の広すぎるリビングで、零はひとりきりの夕食を取っていた。
大きな窓の外では、絶え間なく雨が打ちつけている。
スマートフォンが震える。母からのメッセージだった。
会食先で足止めを食らい、今夜はそのままホテルに泊まっていくという。
――弦は帰って来れるのかな。
大きなテレビが映し出すニュースでは、各地の交通機関に多大な影響が出ていると伝えている。
激しい雨音が屋敷を包み、窓を叩く暴風が建物を微かに揺らす。
嵐の音が不安を際限なく煽った。
――怖い。
ひとりで家にいることは、幼い頃から慣れている。母子家庭の子どもなら、当然のことだ。
だけど、こんな台風の夜は別だった。
膝を抱えて、暗い部屋で母の帰りをひたすら待っていた孤独な記憶が蘇る。
――早く帰って来いよ。
浮かんでくるのは弦の顔だった。
あの強引で熱い腕の中にいれば、この嵐の音も聞こえなかったかもしれない。
「ただいま」
不意に響いた声。
もしかしたら、弦かもと嬉々として振り返ったが――。
「り、律さん……」
間接照明の微かな光だけが、律の整った輪郭を不吉に照らし出している。
「まいったよ、すごい雨だね」
律は濡れた髪を無造作に拭い、ジャケットを脱ぎ捨てた。
「ど、どうして……? 母さんたちと一緒にいたんじゃ?」
「父さんがさ、零くんひとりじゃ寂しいだろうって。僕だけタクシーに乗って帰るようにってさ」
「詠さんが……?」
「今ごろ、ホテルのスイートルームで百々子さんとお楽しみ中じゃないかな」
律は柔らかく、慈しむような声で笑った。
その微笑みの奥にある「何か」を本能的に察し、零は立ち上がった。
「俺、もう寝るんで。おやすみなさい」
足早に横を通り過ぎようとした瞬間、鉄の枷のような力で腕を掴まれた。
「やだな、そんなに警戒して」
「は、離してください……っ!」
零は唇を噛み、震える拳を握りしめた。
「弦になんて言われた?ぼくに近づくな、かな」
「……!」
「本当に過保護で臆病だね」
外では激しい落雷が響き、重苦しい空気が屋敷をじわじわと侵食していく。
逃げ場のないこの空間で、零は喉の奥に溜まっていた問いを、振り絞るように吐き出した。
「弦の母親を襲ったって……、本当ですか」
一瞬の沈黙。だが律は、すぐに小さく喉を鳴らして笑った。
「懐かしい話だね」
まるで昨日の天気の話でもするような、気軽な口調。
「でも、少し違うかな」
「……え?」
「最初に誘ってきたのは、彼女の方だよ」
律は本気で不思議そうに首を傾げた。
「まさか、そんな嘘……」
「ぼくに助けを求めたから、応えてあげただけさ」
窓の外で激しい雷光が走り、白い閃光が律の浮かべた純粋な笑顔だけを浮き彫りにする。
「君だってそうだろう?弦から守ってほしいって、助けてほしいって、そう思っていたはずだよ」
「そ、それは……!」
図星を突かれ、言葉に詰まる。
「だから、僕が愛してあげるよ」
「い、いらない!」
「壊れるまでね」
悪意がない。だからこそ、その無垢なまでの欠落が、何より恐ろしい。
「弦の母はすぐに壊れちゃって、つまんなかった」
律の手が、掴んだ零の指先を這い、ゆっくりとその一本を口に含んで舐めとった。
ゾクリと、全身に猛烈な悪寒が走る。
「零は、どっちかな?」
「や、やめろ!」
「たくさん、遊ぼうよ。今夜は誰もいないんだから――」
その瞳には、熱も欲望もない。
ただ、目の前の新しい玩具がどれほどの耐久力を持っているかを品定めする、無機質な興味だけ。
逃げようとする零の身体を、律は軽々と床へと押し倒した。
毛足の長い絨毯に背中がこすれる。
「かわいい弟は、お兄ちゃんが助けてあげないとね」
耳元で、湿った吐息が聞こえた。
逃げ場のない嵐の夜が、牙を剥いて零に襲いかかった。




