メドゥーサ ③
アイオリア州の荒野。
背の低い立ち木に繋がれた二頭の馬が、それぞれ小さな樽に顔を突っ込んで、がぶがぶ水を飲んでいる。
わたしたちは車座になって、皆の中央に置かれた周辺の地図を睨んでいた。
日避けの麻のタープは、端を結べる高い樹木が無いため、大きな一枚を全員で被っていた。木漏れ日くらいの明るさで通気性も良いが、如何せん暑苦しい。
特にわたしの右隣に座っているのがクラッグ・トートだったため、わたしは消沈していた。わたしが個人的に彼を好ましく思っていないのもあるが……何というか、彼が重ねた歳月によって醸し出される匂い立つ何かが、クラッグ・トート本人を源泉として、この狭い空間に充満しつつある気がしている。
一方で、わたしの対面に座っているネスの方からは、目立たないながらもさりげなく、爽やかな野の花のような香りが薫ってくる。漂って来るのではなく、ネスが腕を動かしたりすると、その都度ふわっと薫るみたいな感じ。
ネスの隣が良かった……。
そんなわたしをそっちのけで、皆で何を話し合っているかというと――。
◆◇◆
「――もっと大きく迂回すべきでは」
「いや駄目だよサーリアさん。これ以上はムリ……どうしてかっていうと、馬に水をやらなきゃいけないから。知ってるか、馬って一日に一斗半も水を飲むんだぜ。遅くとも明日には乗合馬車の駅に着いて、馬にたっぷり水を飲ませてやりたい」
馬が居なくなったら旅の荷物は、俺と、ネスで持つんだぜ。カイユにも手伝わせるか? ……おどけた口調でクラッグ・トートは言う。
これにはサーリアも大いに精神を逆撫でされた様だったが、さすがサーリア、冷静に穏やかに反論する。
「でも件の魔物に遭遇し、ティナさまに何かあっては元も子も……」
「アーベルティナさんは『今日明日では』絶対に死なんと決まってるから、むしろ憂慮すべきは、我々の安否なんだよな……我々の未来が確定していない以上、今日魔物に襲われて死んでもおかしくない」
クラッグ・トートは言う。
馬を失ってもアーベルティナ・スカヴィンズは生き残る。生存が決まっているから。
でも、馬を失ってしまったら他の我々は生き残れないかも知れない。
だから馬の温存を最優先にする。
「ティナさまが必ず生き残る根拠を教えてください」
「すでに観測された未来は過去と同然……いや、すまない。話せない」
――どうせ理解出来んだろうから。
ここまで聞いてから、わたしはとりあえずネスを見やった。
もしネスが「うむうむ、先生の言う通り」と頷いていたら、たぶんわたしは彼を先に殴っていた。けれどネスは、クラッグ・トートが喋る内容を理解出来ずに、眉根を寄せているのだった。なのでネスを殴るのは止めた。
クラッグ・トートは「ところで何か寒くない?」と言ってはぐらかしているし。
……前々から感じてはいたが、クラッグ・トート。この人は自分だけが知っていることを明らかにせず。なーんか他人を煽って良いように操るような……。
もうよし、コイツ殴ろうかな、護衛団の目もないし、大事には至らないだろう。
人を殴ったことは無いけど、どうすれば良いかは本で読んだことがあるから知っているんだ。拳は小指から握る、手首から拳の先端までは真っ直ぐにして……。
肘より肩、肩より腰、腰より脚の力で振り抜くのだ。
今は座っちゃってるから、腰までの力で勘弁してやろう。
「えいっ」
……ぽむっ。
みたいな感触がして、わたしの渾身の拳はおじさんのほっぺに受け止められていた。はわわ、と青ざめるわたしを、クラッグ・トートは「ん?」と意に介さない面持ちで見やった。
暇なのか? とも問われた。
えぇまあ深窓のご令嬢としましては、この状況は確かに暇ではありましたけれども。サーリアとカイユまで、そんな顔してわたしを見なくても良いじゃないの。
◆◇◆
「――州都へのルートよりも、魔物への対策が優先だと思います、先生」
ネスが意見を述べた。
更なる迂回路を選択したところで、魔物に遭遇する確率が無いわけではないし、護衛団と合流できるわけでもない。理由はこれ以上迂回しても戻っても、馬が潰れるから。
……後から思うに、クラッグ・トートという男は、あらかじめ画策して、この時「進むしかない」という選択をわたしたちに取らざるを得ないよう、行動していたのではないかと思う。ネスに「魔物と戦わざるを得ない」と言わせたかったのだと思う。
クラッグ・トートは、ぱんと手を打ち鳴らして、ネスに続きを促した。
「良いぞぉネス! さすが我が愛弟子! そういう建設的な意見を待っていた!」
「……この魔物の能力って、先生はどんなのだと思います? 『犠牲者が急に死んだ』っていっても、兆候はあったと思うんです」
「その情報は無いんだなぁ。たちまち体調を崩して死んだとしか……」
「……即死じゃないんですね? 生存者がいるし」
「だが生存者は誰も、魔物の姿は見ていない」
◆◇◆
……その場に居ても意味が無さそうなので、わたしはタープの外に出た。空気が美味しい――と思いきや、あんまり空気美味しくないなぁ、と思った。
故郷であるスカヴィンズ州の冷涼な空気を思い出す。
ふと空を見上げると、一羽の大きな黒い鳥が円を描いて飛んでいた。
もっと良く見ようと目を細めて手をかざしたけれども、その鳥は太陽の陰に入ってしまったので、わたしは観察を諦めた。
ついでに何か寒気がした気がして、わたしはいそいそとタープの中へと戻った。
◆◇◆
「――ぐじゅ!」
カイユがくしゃみをして、サーリアが鼻水を拭いてあげている。
タープの中に戻った後も、わたしの寒気は収まらなかった。
……皆は寒くないのだろうか。わたしだけ?
「なんか寒くない?」
わたしがそう口にした瞬間、クラッグ・トートが立ち上がりざまに、タープを薙ぎ払うようにはだけた。
クラッグ・トートが、狼狽える皆を見渡して言う。
「俺と姫さま以外に、寒気を覚えている者は!?」
サーリアに抱えられているカイユが、おずおずと手を挙げる。
ネスもサーリアも……全員が寒気を感じていた。
クラッグ・トートは叫んだ。
「すでに魔物の能力に曝されているぞッ! ネス!」
「もうやってます――《針妙たる氷雪の精霊、極光繕いて衣と成せ》」
あっこれ、精霊法の始動鍵っていうやつ――。
わたしは精霊法の勉強が大っ嫌いで「別に練習しないでも死にはしないでしょう」と、徹底的に避けて来たが、同級生たちは真面目に習得しようと努力していた……思い返せば、わたしは精霊法に限らず勉強全般が嫌いだった。
わたしが回想に浸っている間に、ネスの術が完成する。
きらきらと光る冷たい雫が、花嫁のヴェールを伝う雨滴のように、ネスの周囲に展開される。それに見惚れた。
見惚れているわたしの前で、ネスは大きく息を吸い込んだ。
その呼吸に合わせて、ヴェールは範囲を拡大し、わたしたち一行全員を覆った。
……これ、どういう術なんだろう?
「ネスの術が気になるのか、姫さま?」
「え、はぁ、まま、まあ……」
このおじさん、元気そうだな――先ずわたしはそう思った。
わたしもネスも歯をかちかち鳴らしているし、特にカイユの容態がやばそう。サーリアがカイユの背に覆い被さり、その小さな手を持って「はぁー」と息を吹きかけている。
クラッグ・トート。このおじさんも「寒い」とは口にしていたが、他の皆に比べると平気そうにしている。
それに二頭の馬。
馬たちは水を飲み終えて、その辺の草を食んでいる。
特に体調に異常をきたしている様には見えない。馬は寒さを感じていない。
何でこのおじさんと馬だけ? ……いや、おじさんは「寒い」と言っていたけれども。
「――俺の術では防げないです先生。寒さが治まらない……物理的な干渉じゃない、魔物特有の能力で体温をじわじわ奪われてるんだと思います」
「……うむ」
ネスが根を上げてしまったと、この時は思った……ネスなりに情報収集して、師匠のクラッグ・トートに託す戦略になったのだと思った。
……だって、普通は師匠のほうが弟子より強いと思うでしょう。
そんなことは無かった。悪い意味で。




