エクソダス
向こうの川岸に落ちる日が、敵をすべて焼き尽くしてしまえばいいのに、ということを考えた。
この時点からもう移動は開始されている。徐々に南下していき、今回渡る南の橋、ズーデンバイエル橋の姿が大きくなっていく。
篝火が焚かれ、それが人影を映し出しているのが目を凝らすと見えた。しかしバイエル橋のそれに比べると警備は手薄だった。
太陽はその上辺をちょうど融かそうとしていた。そしてやがて、完全に液体の闇にとって代わられる。
「いいか、皆!」
見ると、エルが声を張り上げている。
「我々は、なんとしてもこの川を渡り切り、エクソダスを完遂せねばならない! 生き残るか、死かだ! 死力を尽くして突破せよ!」
耳をつんざくような雄叫びが上がった。敵に存在が割れてしまうが、どのみち接近するときにばれるのだからあまり変わらないのかもしれない。
突撃の号令があり、雪崩を打つようにして橋へと殺到していく魔族たち。俺は足手まといにならないために、矢や魔法の射程の外からそれを見ていた。
第二、第三の攻勢が加わると守備側の戦線は崩壊した。それに合わせて魔族は一気に橋を抜けていく。
長い、長い橋だった。岸が一向に近づかないほどダイドム川は川幅があった。これほどまでか、と大自然というものに感嘆する。
そして向こう岸。しかしそこまで至ろうとしたとき、エルが突然に進軍をやめるよう命じた。
どういうことなのか。俺はその場を抜け出すと、エルのところまで行って直接話を聞くことにした。
「……罠だ」
「罠?」
小指を噛みながら悔しそうにする彼女に、俺は思わず言葉のまま返した。
「しかし敵は、この橋の向こう岸にはいないと」
「それが罠だったんだ」
「……」
「敵はこの向こう岸にいる。一切の火を焚いていなかったから、存在に気づけなかったんだ」
川岸から川岸までが遠く、連絡手段も乏しいゆえに、俺たちには向こう岸の状態を視認によってしか知ることができなかった。裏を返せば、兵が物陰に隠れ、明かりもつけていなければ、俺たちがそこに兵がいることを知るすべはない。
これだけなら用心できたはずなのだが、バイエル橋の向こうであたかも大兵力が用意されているように篝火が灯っていたから、てっきりそこにしか兵がいないと思い込んでしまっていたのだった。
「引き返すんですか」
「ああ。もしも、後ろも人間に塞がれてなかったならそうしたいところだ」
「……」
見事なまでの挟撃が成り立っていた。前後を敵に、そして左右は川にそれぞれ阻まれている。この作戦を立案したやつは、よっぽどの先見の明を持つらしい。
「もう作戦はない。正面を抜く、それしか」
「……」
絶句してばかりだった。魔族の総力を挙げて敵にぶつかったとして、どれほどが生きて抜けられるだろうか。あえてエルはそれを言わなかった。
「心配するな、魔族は強い。きっと、抜ける。抜けられる」
根拠のない――。そう言って唾棄したくなる。しかし俺よりもエルのほうがきっとそれをわかっている。わかっていて、俺がそういう根拠のないことが信用できないのもわかっているのに、彼女はそうとしか言わなかった。俺は奥歯をぎっと噛むと、鼻から息を吸った。
「そうですね。魔族のために、そしてエルのために……。なんとしても抜けましょう」
中空の言葉だった。
「ああ、魔族のため、オレのため、そしてツヴァイ、お前のために、な」
……俺の言葉が中空であったなら、エルの言葉は数滴の本音を注いだ言葉だったように思う。昼間のシュウとの話が場違いにも脳裏をよぎった。
「あの」
「ん? どうした」
「……あー、いえ。また、あとで。会いましょう」
「ああ。また、な」
俺は急いでその場を離れた。俺がエルにできることは、もう何もなかったからだった。
挟撃の動揺に包まれる魔族の群れの中で、俺は一人、誰にも悟られぬように肩を震わせていた。




