実験
怖い。怖かった。暗い場所は、なおのこと嫌いだった。息の詰まる感覚は、俺の経験――まだこの世界に来る前のそれを彷彿とさせ、眉間にしわが寄りそうになったが、見えざる手はそれすら許さない。
息を吸っておいたのは正解だった。少なくとも呼吸という観点において、前回よりも少し余裕がある。
手足は動かない。声を出そうとすると、水の中でそうしたときみたいに、普段とは変わって聞こえる。
「(……会いたいなあ)」
そうつぶやいたのは、なにによってか。
どうやら、身体の外部だけ、まるで固定されたみたいに動かせないのであって、内部の心臓とか神経とかは動いていられるようだった。魔力をためる工程はできたが、放とうとすると外に出ようとしているのに出すことができず、指のちょうど薄皮一枚あたりに魔法の成りそこないがたまってしまう。
俺だけがいる世界、という感じがして何となくさみしくなり、ちょうど息がつらくなってきたので再び【チート】の解除をする。
……ぼッ!
「うわ!」
驚いてしまったのは、俺の指から予期せずに火の魔法が出たからだ。……いや、予期することはできた。なぜならその指は、さっき魔法を出そうとした指と同じだったからだ。
……時間差での魔法の発現? 意図せずにそんなことができるはずはないのだが。
爆発的に一瞬だけ点いた火は、僕の胸中に疑問としてくすぶっていた。
「……」
「エル、どうしましたか」
出来の悪いAIの問答のようになってしまったが、再び映った彼女の目に、少なくない動揺の成分が揺蕩っているのを見つけるとそう問わずにはいられなかった。
「……なんでもねーよ。それより、その【チート】ってのはどんな能力だったんだ」
「ああ、それなんですがね」
正直言って自信はないが、きっとこうだ。
「……時を止める能力なんじゃないかって」
「時を止める?」
「はい。ああいや、まだ仮説なんですけど、正確には僕以外のものの動作を止めるんじゃないかと思うんですよ」
見えない手は、チートの主産物ではない。きっと動作を止めた空気が、僕の動きを縛り、呼吸までもできなくしたんだろう。光や音も止まってしまったから俺に伝わらなかったんだろう。いっぽうで、俺の身体の熱が外に逃げなかったと考えれば、あんなにも暑かったのも納得がいく。
「オレも止まってたというのか? いや、でも確かに……」
「……まだすこしわからないことがあったので、その、実験に付き合っていただいていいですか?」
「あ、ああ」
その後いくつかの実験を重ね、やはり仮説は正しいことを知った。……正確には違うのかもしれないが、およそあたっているのだろう。
「ありえない、時間を止めるなんて」
「僕もそう思います。……少なくとも、科学法則も魔法法則も、通用しない」
「なるほど、【チート】ってことか」
エルはそこで諒解したらしかったが、俺にはなお疑問が残っていた。異世界だから? 異世界だから、というだけで済ましていいのだろうか。
「実験はこれで終わりか?」
「ええ、一応は……。なにか不備があったでしょうか」
「……オレも、その『止まった世界』に行きたい」
「それは、どういう」
「あー、いや。たとえば、もし他人と接触してたら、そいつはどうなるのか、とかさ。その辺はどうなんだ?」
「確かに、それもそうですね、しかし誰が」
そこまで言うと、悪戯っぽい目が一対、こちらを見ていることに気づいた。……まさか、と思うと、彼女がこちらに手を差し出していることに気づいた。
「……わかってるんですか?」
言ってから、しまった、と思った。しかしエルはたいして気にした様子もなく、握れとばかりにその手を主張してくる。
俺は恐るおそる、それに自分の手を近づけていく。考えてみれば、俺が彼女に触れた機会というのはそう多くない。恥ずかしい、というより、俺の触れていいものではないんじゃないか? という考えが脳裏をよぎるのだ。
渋っている俺の手を半ば強引につかまれた。少し委縮したが、それはそれで失礼なので、あからさまにならないくらいまで抑える。……どうせ、これもバレているのだろうが。
「……もし、エルも動けていれば、僕の手を強く握ってください。それがわかったときに、解除しますので」
そうとだけ言って、二人で息を大きく吸うと、つぶやいた。
「【ザ・世界】」
何度めかもわからない暗転。俺は握ったはずのエルの手を探した。というのも、止まった空気と一緒になってしまい、どこにあったかわからない。温度だけ残っていたのもやがてなくなって、自分の体温だけをしたたかに感じるようになった。
それでも一抹、希望を持ってしばらくじっとしていたが、それすら不毛なような気がしてきて、ついに耐え切れなくなり、結局エルのレスポンスを得ないままで【チート】の解除に至った。
「……もうやったのか?」
「はい。……一応確認しますが」
「ああ、無理だったよ」
「すみません」
「てめーが謝ることじゃないだろ」
そう言う声が、どことなく寂しい声色に聞こえた気がした。もしかしたらそれは、俺の主観が大いに入っているかもしれない。寂しいのは、俺もそうだった。
握った手に汗がにじんでいることに気づくと、半ば振りほどくようにしてそれを服で拭いた。変にべとついていて、ただ暑いだけでかいた汗とは思えなかった。




