矢文
俺が目を覚ますとしかし、ベッドの上に知った顔がなかった。
朝のやるせなさが気圧と一緒にのしかかってくる。できることなら昨日のあれはすべて夢で、『全く馬鹿ね』なんて、俺を覗き込む顔が言うのをそれこそ夢見ていたが、泡沫の夢だったようだ。
全部なかったことにして、アンが戻ってきてくれれば万々歳だったのに。俺は一つため息をつく。
いや……もしかしたら、もう外に出て剣を振っているのかもしれない。
「はは、全くアンも意地が悪い」
そんな風に笑いながら、手早く用意して部屋を出る。
いくら近づいても剣の風切り音も魔法の発動している音も聞こえなかったが、それはきっと俺が声高に笑っているせいであろう。
――当然のことだが、がらんどうになっていた。
心底、意外だった。
駆け出した。心当たりを探って、行けるところ――ギルド、バイト先の食堂、あとは、あとは、あとは――!
気がついた。
俺は、彼女が行きそうなところを、知らない。
ぽつり、雨。
石畳の地面に染みができて、みるみるうちに増えて広がる。
瞬く間、おびただしい。
手の熱が奪われた。その手の熱が奪われている。
洗い流していく、洗い流されていく、洗い流していく……。
熱は掴めない。ただ逃げていくだけだ。
失意のうちに帰宅。
まだ破り捨てていない離婚届、まだ匂いの残る布団。アンの私物の数々。
窓の外の雨の音が、俺の心を冷たく打った。あるいは浄玻璃の鏡。
部屋は寒かった。
もぬけの殻となったベッドに座って、おもむろに例の紙に手を伸ばす。
端っこが濡れて、じわりと広がった。
仮にもアンの置いていった思い出の品を、と思うとそれは虚しさの色であった。
彼女が既に思い出になっていることに、自分の中に言いようのないやるせなさがあることに気づく。
俺はどうすべきだったんだ?
わからない。こういう時にどうすべきだったのか、そういった熟練度というものがもっと欲しかったものだ。
紙を放りながら嘆息する。
壁の凸凹を指でなぞってみるが、だからと言って何か変わるわけじゃない。
ここにいるだけでは、何も変わるわけがない。
それでも、窓の外の暗澹と驟雨を眺めて、ただぼうっと、腰を据えて動かない。心が異常なまで凪いでいて、末恐ろしい、なんて感想を冷静に出せてしまうくらいだ。
変わらぬ音と、変わらぬ天気。
変わり映えのない、小豆をこするようなそれが締めた窓から入ってきていた。
そんな平穏が、風切り音により途切れる。
木がしなって振幅する音が響いて、悲愴なる極楽から俺を引きずり出した。
何事だろう。少し動いて見ると、外側の窓枠に矢のようなものが刺さっているのに気がついた。さらに見れば、そこには油紙のようなものが縛られている。
「……矢文?」
時代錯誤――それを言ってしまったらおしまいな気もするが、この西洋のような文化と齟齬があり、違和感を禁じ得ない。
周りを見るが、厚い雲の落とす影しか見つからなかった。何者かの手紙かはわからないが、それは中を見ればわかるだろう。
窓を開き、それを回収する。
何も、こんな方法でなくても直接渡せばいいだろうに。それほどまでにシャイなのだろうか。
机に腰を落とし、早速油紙を広げて中の紙を読む。
『ツヴァイ殿』
「ぶっ!?」
宛名が、『俺』であった。
俺のこの名を知っているものは3人のみだったはずだ。しかも、うち二人はおそらく未だ捕虜として自由を奪われている。おれは、この差出人はシャイではないことを悟った。
『お元気ですか? 私は元気です』
読みにくい拙い字だ。敬語もそうだが、慣れていないのだろう。手紙の作法(俺もよくは知らないが)を無視して書かれた文字を解読しながら読み進めていく。
『早速ですが、話題に入らせてもらいます。ツヴァイ殿に頼みたいことは、魔族軍への加勢です。詳細は省くが、近年我々を迫害しようとする動きがより強くなってきてます。それに対抗すべく、我々は兵力が必要なのです。』
宛名の時点で薄々勘づいてはいたが、やはりこの手の話題だったか。あの性格からして、文通なんて趣味ではないことなど想像できたがそれでもここまで予想通りだとは。
しかし、俺には今、ひとつの使命がある。すなわち、アンを探すことだ。だが、どこにもいないし、どうせそこらの路地で泣いているのではなかろうか。ほとぼりが冷めれば帰ってくるだろう。
そのことも考慮に入れながら読み進めていく。
『ツヴァイ殿にとっては同族となりますので、報酬の方も色をつけさせていただきます。戦功ぶんの報酬のほうも普通の倍額出させていただくですし、勝利した暁には特殊な魔道具を授与したいとも考えております。』
普通の倍額、だとか特殊な魔道具、だとかとにかく胡散臭い。それでも、最後までは一応目を通してしまった。
どうする? 一応、俺とエルハイヤは知らない仲じゃない。しかし、こればかりは俺一人では決められっこない。人族に仇をなすというのは生半可な気持ちでできるものじゃない。下手をすれば――俺の方がステータスもレベルも低いのだから、足を引っ張ってしまう可能性も否定できない。
こんな時、アンならなんと言うだろうか。わからない。でも、俺は今、彼女について非常に”後悔”をしている。
後悔をしない選択をしよう。そのためには、まず情報を集めよう。
俺はまず、今日二度目になるギルドへと向かった。




