黒
少女は走っていた。
一刻も早く、これを伝えねばならない。
小柄な体躯に鞭を打ち、駆ける。
鴉色の装束は、さながら夜闇を吹き抜ける突風。
無垢な顔には玉のように汗が滲み、それは額から小さな鼻を伝って薄く瑞々しい唇まで至ると、これもまた小さな牡丹色の舌に舐めとられた。
吐く息は筋肉どころか脂肪すら碌につかない身体に押し出されて白く溜まり、程なく消え去る。
何から逃げるのか、どこへ向かうのか――窺い知ることは叶わない。だがその容姿、もっと言えば頭上に力強く突き上げる水牛ような角、そして疲労に見開かれた眼球にはっきり見て取れる魔法陣が、それが逃げる理由を如実に示していた。
人にして人ならざる存在。神に逆らい烙印を押された、裏切り者の種族。
魔族であった。
野を超えひた走る。心臓が喉を突き破りそうなほど高鳴り、少女は思わず右の手で左胸を抑えた。
華奢で走り慣れていない体躯は、ステータスの補助こそあれど体力を確実に蝕んでいる。
それでも、立ち止まることは許されない。迫害の種族、魔族は捕まればどんな扱いをされるのか、想像に難くなかった。あくまで『人間』である奴隷よりも酷い扱いを受けることは確実であろう。
どうして自分が、自分自身は何もしていないのに迫害されねばならないのか。暗い影が思考に落ちていく。
――その時。光明が見えた。
間違いない。ものの燃える光だ。
疲労に染まった少女の思考には、あれが敵だったら、という可能性すら浮かんでこない。ただ、そこに行けばなんとかなるという楽観的な希望のみである。
崩れ落ちそうなそうな腰に喝を入れて、もはや感覚が怪しくなっている足を前に前に蹴り出す。
あと少し。あと少し、あと少しあと少し――!
茂みを突き破り、跳躍の勢いのまま躍り出る。
顔をしかめた。ここにきてようやくその肉を焼く匂いに気がついたのだ。
邪教の儀式だろうか。――そう考えて、少し自嘲する気分になる。
しかし、その馬鹿げた考えは――
ガキィィィィィィィィイイイン!
自分が咄嗟に出したナイフの音にかき消された。
放たれたのは一筋の剣尖。白銀に残る軌跡は、漆の小刀に途切れる。
ようやく、少女も自らの過ちに気がついた。そしてそれは、剣を振るった男も同じく――
「……あれ、ゴブリンじゃない」
素っ頓狂な声に少女は期待が外れた気分になったが、それどころではないと慣性に任せて、ふかっとした草を踏んだ。前にずれた重心。しかしそれは内臓を大きく揺さぶったのみにとどまった。
「ぁぁぁぁあああああ!!!! 申し訳ありません!すみません!ほんっとおおおおおうにごめんなさい!!!」
「何言ってんだ! 離せ!」
妙な男が少女の服を鷲掴みにしてその場に縫い止めたのだ。
強気な語調に焦りを孕ませて少女は引き離そうとするが、男は縋ったままちっとも剥がれそうにない。
「急いでるんだ! どけよ!」
「どけません! まだ謝りきれておりませんので!」
「い、意味がわからない! いいから早く!」
顔を蹴ろうが何をしようが、纏わりついている男はちっとも離れるそぶりを見せない。
むしろ、より強く縋り付いている気がする。
「お慈悲を、お慈悲を!!!」
「ほら! 来る! 来ちゃうから!」
いい加減しつこい。新手の妨害工作だろうかと思い、これなら実力行使も辞さない腹積もりである。流石にこれでも魔族の一端、魔法には自信があるのだ。
「あわわ、申し訳ありません!」
そうするとすぐに、やっと妙な男が離れた。どうやら魔法の腕もある様子で、少女は自分の魔法発動が見破られたことに軽く感嘆した。
――しかしそれもつかの間。少女の可憐な耳は、がさりがさがさ、という音を捉えた。疲労の色を浮かべていたその顔は更に蒼白になる。
「……あああ、もう! 全部お前のせいだ!」
「すみませんすみません! 靴なら舐めます! いえ、舐めさせてください!」
「うるさい黙れ!」
どうしてこんな変質者と遭遇してしまったのかと自分の運の悪さを怨んだ。
運が悪いのは魔族として生まれてしまった以上尽きているも同然のことではあるが、なにもこのような形でと思うと苦笑いすら浮かばない。
「――そ、そういえば魔族の方なのですね」
「……ッ!」
気づいてしまったか。いや、気づかないほうがおかしいか。
少女は逡巡する。
どうする。今なら頑張れば逃げられる。そうでなくても人族だ、魔法で一撃だろう。
片足に重心を置いた。
「で、ですが! 僕はそんなことに気づいてなんていません! 途中までなら手伝います。僕の表明できる最大限の謝罪です」
少女は思った。ふざけるな、と。自分は今までこう言って偽善者ぶった人族を見て来た。いざ自分に危機が迫ると、保身のために切り捨てる腐った外道だ。
そしてこの男も、同じ目をしていた。
……利用価値はある。前にこの経験をした時、同じような人物が現れれば利用してやろうと考えた。その機会が今来たのみだ。
僅かな罪悪感を上塗りして、少女は唇を開いた。
「――人族に追われてるんだ。手を貸してくれ」
「……わ、わかりました。手伝います」
――これが少女エルハイヤと、サブローとの邂逅。そして、全ての発端であった。




