ヘリウム
「それじゃ、行こう?」
彼女が言うので、俺は自室の扉を開けてしまう。
――いい加減脳内でずっと『彼女』って言うのもどうなんだ?
「――アン、って言うのはどうでしょうか?」
「ん? 突然どうしたの?」
あ、やらかした。
自責しそうになるが、押さえつけて続けた。
「……名前、です」
「ふーん、其の心は?」
「アンパサンドのアンです」
「アンパサンドって&よね」
「はい、&です」
「それで? どうして&なの?」
「アンパサンドっていうのは元々はアルファベットのZの次の文字だったそうです。 えっと、なのでこう、AからZっていう『普通』を超越するような、そんなニュアンスです」
うまく説明できたか怪しい。
「ふーん、わかるんだかわからないんだか。まあいいわ、それがサブローだもんね。わかった、私の名前はアン。よろしくね」
手を差し伸べられた。
俺なんかが握っていいのか? お、女の子の手を? こうゆうのってババ抜きかなんかの罰ゲームで、触ったらセクハラ呼ばわり、触らなかったら好意的に接している女の子に対する傲慢な男呼ばわりっていうまさに前門の虎後門の狼な詰みゲー状態ってやつだろ? 知ってんだからな。何度かやられた事があるし。
じっ、とその手を見ていたが虎と狼のどちらに食われたいかを考え、結局握ることにした。
「よ、よろしくお願いします」
眩しいっす。笑顔が眩しいっすよ。
ウブなカップルみたいじゃないか。――まあ、それ以前にもう結婚しているらしいんだが。
……結婚なんて本当に縁がないと思っていたんだがなぁ。
しみじみとしていると、奥の方から床の軋む音が近づいてきた。
「何やってるんだい、全く」
「あっ、女将さん。おはようございます。えっと、こっちは……」
「サブローがいつもお世話になっております、私はサブローの妻のアンと申します。よろしくお願いします」
折り目正しく自己紹介をしたアン。
女将さんはこちらとアンをそれぞれ一瞥すると、再び口を開いた。
「ふーん、異常な魔力を感じて来てみれば、なるほどねぇ、面白い。アンと言ったかい、ちょっと寄りな」
近寄ったアンの腕をとり、上下に動かしたり、口を開けさせたり、はたまた目を覗き込んだり……
「……へぇ。ま、要観察ってところか。さて、それで? 何か払うものがあるんじゃないのかい?」
「あ……そう、ですね。宿泊2名で継続お願いします」
女将さんが差し出した手に銅貨を数十枚落とす。
「まいどあり。――騒ごうものなら、解ってるね?」
「はいぃ! 決して!」
ぶわっ、と魔力が膨れ上がったのを感知した俺は身の危険による脊髄反射でそんなことを口走っていた。
何もしないしできないので大丈夫ですよ。俺チキンだし。
何かを呟きながら踵を返した女将さんを見送っていく。
「……行きますか」
「ちょっと……怖かった、かな」
「……お疲れ様です」
「結構ドライね」
「すいません」
どう答えるのが正解なのか。国語の教科書に正答例が載っているならもっと楽だったものを。
女心とはいとむづかしきかな。
◆
「へぇ、アンさんね。僕はハリーっていうんだ、よろしくね」
アルカイックスマイルでキメるハリーさん。
「夫がお世話になっております」
「いやいや、こっちも助かってるから」
社交辞令というやつかな、これは。
俺は完全に空気と同調する。俺は窒素だ。
二人でいくつか言葉を交わしている。 お似合いのカップルだなぁ。どう考えても俺なんかよりも。
改めて見ると本当に可愛らしくて綺麗な人だな、本当に。俺なんかと釣り合っているのか?
うーん。
「さっ、それじゃ行きましょ」
「あっはい。そうですね」
いつも通りに薬草採集の依頼を受けて、いつも通りに平原に向かう。
心なしかハリーさんが、俺だけと一緒に依頼を受けた時よりも楽しげに話しているように見える。
俺は後ろを追従するのみ。時折二人から話題が振られるが、「あっあっ」などと狼狽しているうちに愛想をつかれたのかあまり話題も振られなくなってしまった。
たまにチラッとこちらを見る程度か。
……何だかなぁ。
ところで、アンの薬草採集技術は目を見張るものがあった。
流石、俺の目を通して観察していただけある。
効率が単純に1.5倍になったようなものだ。
「にしても、案外退屈ね。この仕事」
背中を伸ばしながらアンが言った。
「お金と安全の為なので」
この世界に来てからというもの、より安全志向が強くなった気がする。日本で安全社会に甘んじていた分の反動だろうか。
全く、なぜ人というのは隣の芝生が青く見えるのだろうか。
羨んだからっていいことなぞ、一つもないというのに。
プツリと断ち切る。
撫でるように薬草を採っていく。
この程度ならお手の物だ。
……虚しさ、かな。
日が傾いた。
「今日はここまでにしよう」
ハリーさんの言とともに作業を切り上げ、薬草の詰まった背嚢を背負って帰路に着いた。
――昨日までと、ほとんど同じ光景である。
ただ、一点を除いて。
「……あの、アンさん。ちょっとその腕を離してはいただけませんか?」
「ダメに決まってるでしょ」
俺の右手をがっちりホールドしながら、ハリーさんと話しているアン。
「だってこうでもしてないと、サブローはまた一人になるじゃない。勝手に話から離れていくし」
「そう、ですかね」
「そうよ」
自覚はないわけではないが……そんなにひどいだろうか。
これがぼっちの性というものだろうか。
「いい? 今日はずっとこうするから。罰ゲームよ」
「何のですか」
「敬語喋っちゃダメゲームの」
「……ぇぇぇえ」
「文句あるのかな?」
「いえ、決して!」
俺の返答に満足したのか、満面の笑みを浮かべたアン。いつの間にそんなゲームが始まったのやら。
……あの、ハリーさん。微笑ましいものを見る目で見ないでください。恥ずかしいです。
――ただ、こうやって振り回されるのも存外悪くはないのかな、という気がして、そして俺も破顔していることに気がつき、嬉しさを感じた気がした。




