第96話 記録の全て
(グランツィリア大聖堂 前広場)
六月の上旬、グランツィリアに夏の気配がほんの少し混じり始めた頃だった。
早朝の大聖堂の前に、三人の人影があった。先頭を歩く男は、黒い法衣に銀の縫い取りを施した司教の装束をまとっていた。胸元には、正八角形の内側に天秤を象った銀の聖印。その背後に黒衣の二名が続いた。一人は同じ天秤の紋章を刻んだ白銀の聖印を、もう一人は、羽ペンの意匠が入った白銀の聖印を胸に提げていた。
この時間、大聖堂の辺りはまだ静かだった。礼拝の時間には早く、往来に人影は少なかった。それでも通り過ぎる者が三人に気づいたとき、足を緩めた。法衣の濃さでも聖印の細工でもなく——一歩ごとの踏み込む隙のなさのせいだった。
グレゴールが門まで出向いて迎えた。
「遠路はるばるよくぞお越しくださいました、エイリフ審問官。ドミナリウム主聖殿よりのご来訪、心より歓迎いたします。レイフ補佐官、ハンコ記録官も、どうぞお疲れの出ませんように。本大聖堂は、皆さまの務めに全力で協力いたします」
先頭の男——エイリフ・ホルム異端審問官は、グレゴールの言葉を受け、小さく頭を下げた。
「ご配慮、感謝いたします、大司教猊下。我らは八聖典殿の命により参りました。必要な情報と関係者への接触について、順次の許可を賜われれば十分です」
一拍置き、続けた。
「それでは、精霊術学院に向かいます。道順は把握しておりますので、案内は不要です」
「承知しました」
グレゴールが大聖堂の内側に戻るのを確かめてから、エイリフは補佐官のレイフ・ソレンセン、記録官のハンコ・リンドの顔を見た。
「参りましょう」
それだけを言い、歩き始めた。大聖堂の前広場を出ると、初夏の朝の空気が広がっていた。市場の声、馬車の音、目覚めかけた往来。学院に着くまで、三人は一言も発さなかった。
——————
(ヘルミーネ視点)
精霊術学院の正門に三人が着く前に、出迎えに出ていた。
昨日の午後、シュタイナー司教から短い文が届いていた。
明朝、教会の者が学院を訪問します。記録の確認を行うため、ご協力いただきたい。
それだけだった。何の記録についてかも、来訪者の素性も、書かれていなかった。
正門の前で三人と向き合ったとき、最初に目に入ったのは黒衣の色の深さだった。次いで、先頭の男の胸元——正八角形の内側に天秤を刻んだ銀の聖印。その意匠に見覚えはなかった。三人は一礼した。私も一礼を返した。
「アルトリース学院長。私はドミナリウム主聖殿所属の司教、エイリフ・ホルムです。こちらは補佐官と記録官です」
「学院長のヘルミーネ・アルトリースです。ご案内いたします」
廊下を歩く間、三人は無言だった。学院を初めて訪れた者が見せるような、わずかな好奇心すらなかった。記録を確認する、それだけのために来た——三人の顔がそれを物語っていた。
応接室に通し、正面に立ったとき、エイリフ司教が私の顔を一度だけ見た。目を合わせようとしてみたが、合わせられなかった。感情の色がなかった。
「アルトリース学院長、案内ご苦労。まずは記録類を提示してください」
「リュート・アーデンに関する記録を、すべて提示願います。卒業試験の記録、精霊暴走事件報告書、通常成績、指導歴を優先して確認したいと思います。また、エーレンバルト先生には、記録の確認が終わり次第、聞き取りを行いたく存じます。お手すきの際に、その旨をお伝えください」
補佐官が詳細な要求を並べた。具体的で、無駄がなかった。その隣では記録官がすでに羽ペンを持ち、静かに構えていた。
「承知しました。少々お待ちください」
応接室を出た。
廊下を歩いていると、足が一瞬だけ止まった。
——アーデン君に関する全ての記録。
また歩き始めた。それ以上は考えなかった。考えようにも材料がなかった。
その後、応接室に運ばれた記録を三人は一週間かけて丁寧に確認した。
一度、追加の資料を届けたことがあった。扉を開けると、机の上には記録の束がいくつも積まれ、その合間で羽ペンだけが規則正しい音を立てていた。誰も顔を上げなかった。資料を置き、すぐに部屋を出た。
その一週間、学院の中では、皆、普段と変わらない顔をしていた。だが、教師たちの足音はいつもより少し速く、生徒たちの間でも、理由のわからないざわつきが小さく広がっていた。
そんな中で、提示した記録にリセルの研究結果が含まれていなかったことだけが、唯一の救いだった。
——————
調査が終わった日の夜。学院長室は静まり返っていた。
机の前に腰掛けたまま、燭台の炎が壁に落とす影を見ていた。書類は脇に退けてあった。手は動いていなかった。
「アーデン君に関する記録をすべて確認するなんて、教会は何を調べているの?」
声が漏れた。
一週間、三人は黙々と記録を読み続けた。求められた資料を都度用意した。それ以上のことを、彼らは何も言わなかった。明日はエーレンバルトに聞き取りを行うという。理由は、ついに明かされなかった。
私の取り越し苦労であれば良いのですがね。
そう思いながらも羽ペンを取り、紙を引き寄せた。
念のため、アーデン君には手紙を送っておいた方が良いでしょう。それ以上のことが今の自分にできるかどうかは——
その先を考えかけて、止め、羽ペンを動かし始めた。書き終えると封をし、一息ついた。
昼間は安堵した、リセルの研究結果が含まれていなかったという事実。それが今、違う形で頭の隅に引っかかっていた。
頑なに出さなかった理由があるのはわかるけど、何かあったら困ることになるわね。
今考えたところで、答えが出るものではなかった。何かあれば、その時に対応を考えればよい。そう区切りをつけ、思考を切り替えた。
封をした手紙に目を移した。 宛先を見た。ブランデル領、ブランドルフ。
その名を目で追っていると、遠くにいる生徒の顔が浮かんだ。あのまっすぐな目。静かな声。今頃その土地で何をしているのだろうと、考えずにはいられなかった。
燭台の炎が、壁の影を静かに揺らし続けていた。




