第95話 届かない夜
(リュート視点)
五月も半ばを過ぎた頃だった。
木々の縁で、足を止めた。
森の中から湿った空気が抜けてきた。五月の森の匂いは草と土と、少し遠くで、何かが朽ちかけている匂いが混じっていた。見回りという名目ではあったが、来た理由は別にあった。
あの剣だ。
卒業試験の森で、迷い魔に振るったあの一振り。精霊術を纏った剣。ユリウスたちはそう言った。俺自身、どうやったのかは全くわからなかった。
学院に戻ってから、ユリウスとアリシア、クラリスに話を聞いた。見た目はどうだったか。精霊がどう動いたか。できる限り丁寧に聞いた。手がかりはいくつか得た。それでも、剣に精霊術を纏わせることすら今もできないでいる。纏わせようとするたびに、精霊が、こちらの意図に応じない気配を返してきた。言葉ではない。ただ、それで意図が外れているとわかった。
だから今日は森に来た。あのときに近い環境なら、何か見えるかもしれないと思って。
瞼を閉じると、光景は戻ってくる。ユリウスと並んで対峙した。剣を振り抜いた瞬間の感触。振り返った時の俺を見る皆の顔。
——倒れた迷い魔の、あの静かな目が、今も胸の奥に残っていた。
ただ、ここにいても、あの匂いも温度も空気も再現されなかった。何かが欠けている。それだけはわかった。
――――――
見回りを終えて館に戻ると、ガレス様が「少し休憩だ」と声をかけた。
庭の南向きの壁際に腰を落ち着けると、日が当たって背中が温かかった。午後の日差しが石壁に溜まっている。父さんたちもそれぞれ腰を下ろした。
頭の中では、まだあの剣のことが離れなかった。アリシアには、まだ話していない。なぜかと聞かれると、答えが出なかった。話そうと思えば話せるのに、アリシアに話すとなると、どう言葉にすればいいのか掴めなかった。
「リュート、どうかしたのか?」
父さんが聞いてきた。
「あ、いえ、何でも——」
言いかけて、止まった。精霊術を使っても、向き合っているのは剣だ。
「……剣が。あの時の剣の再現ができないことで、行き詰まっていまして」
「あの時の剣とは、卒業試験で迷い魔を倒したときの、か?」
「はい、そうです」
父さんは顎を少し撫でながら宙を見た。それからこちらを見た。
「精霊術のことはわからないが」と前置きして、続けた。
「一度でもできたのだから、技術の問題ではないだろう。剣でも、意図してやろうとして、かえってできなくなることはある。簡単なことでもそうだ。ましてや、高度なことであれば尚更だ」
父さんにしては、言葉が続いた。
「心の、精神の問題、ということでしょうか?」
「その可能性はある、というくらいでしかないがな」
「力んでいるのと、力が漲ってるのは違うだろ」兄さんが横から混ざってきた。「無意識でもできたんだから、意識しすぎているんじゃないか?」
「それはあるかもしれないけど、意識して無意識にするのは、無理があるよ」
「まあな。でも、ここには父さんも俺もいる。ガレス様やエリオット様もな。焦る必要はないさ」兄さんが俺の肩を軽く叩いた。
頷いた。
「ありがとう」
少し間があった。
「うむ」という低い声がした。ガレス様が腕を組んで目を細めていた。それだけだった。聞いていたということが、それだけでわかった。
「では、再開しようか」とガレス様が言って、皆が仕事に戻った。
――――――
その日の夜、家の庭に一人で立った。
剣を手に取り、刃を見つめた。
あの時のことを思い返した。走り出した瞬間、剣に重さが宿った——あの感触だけを頼りに、土の精霊術を纏わせようとした。土の気配が集まり、刃に向かった。届く前に散った。
もう一度。刃まで届いたが、触れた瞬間に霧散した。手の中に残るのは、いつもと変わらない剣の重さだけだった。握り直すたびに、柄の感触が馴染んでいった。それだけが馴染んでいった。あの重さは、何度繰り返しても戻ってこなかった。
夜気が首筋に触れた。庭の冷えが、じわりと足元から上がってきた。気づけば、夜が深くなっていた。
「……まだ、ダメか」
精霊がそこにいた。昼間のような感触は、返ってこなかった。
もう一度、剣を構えた。
――――――
それから毎夜、同じことをした。あの重さは戻らなかった。
五月の終わり。丘の草の上で、スーリィが目を閉じていた。
今日もまた、俺とアリシアは少し距離を置いて待っていた。
精霊が動き始めた。
光と闇の気配が、同じ瞬間に寄っていった。ほんの小さな影が広がり、その中心から光の点が、同じ瞬間に浮かんだ。
誰も声を出さなかった。
スーリィは、動かなかった。瞼を閉じたまま、自分の手の先に何かがあるのを感じているようだった。それから、ゆっくり目を開けた。自分の手を見た後で、俺たちを見た。
横を見ると、アリシアが息を吸ったのがわかった。
「スーリィ、やったね」
アリシアが先に言った。
スーリィはまだ少し呆然としていた。それからようやく息を吸って、笑顔になった。
「スーリィ、おめでとう。完成したご褒美に、これをあげるよ」と箱を渡した。
「えっ?」と言いながら受け取り、蓋を開けた。白い花びらが五枚、中央に淡いピンクの丸石。スーリィが箱を傾けて光に当てると、花の中心に光が溜まった。
「あっ、かわいい。お兄ちゃんありがとう」
抱きついてきた。
「お祝いだからいいんだよ」と言ったが、俺も嬉しかった。
「うん、大事にするね」
「ああ」
スーリィはすぐにアリシアの方を向いた。「アリシアお姉ちゃん、つけてみていい?」と聞いて、アリシアに髪飾りをつけてもらい始めた。
「どう? 似合ってる?」
スーリィが俺に首を傾けた。淡い若葉色の髪に、白い花が揺れていた。
「ああ、似合ってるよ」
「やった! 皆にも見せてくる」
そう言うとスーリィはアリシアの手を引いて走り出した。アリシアが半歩引きずられるようについていった。
俺は丘の草の上に残された。
スーリィがアリシアの手を引く理由を、一瞬だけ考えた。嬉しくて誰かと走りたかったのだろう。すぐに、そうだと思った。
二人の背中が遠くなっていった。スーリィの髪飾りが揺れていた。あの子が朝も夕も積み上げてきた時間の先に、今日があった。
こんな日々を守るために、あの剣は自由に使えるようにならないといけない。届かない夜はまだ続いている。でも、焦る必要はない。今はゆっくりでいい。父さんがいる。兄さんがいる。ガレス様も。皆と協力して守っていける。
そう思っていた。




