第94話 先生への約束
(アリシア視点)
その日の夜、館の庭に出た。
石畳の上に立つと、足元から冷えが来た。五月の夜はまだ冷える。肺の奥まで冷えが染みて、それが一月の夜を思い出させた。あの頃も、こうして外に立っていた。霜の時期で、手がかじかむのを無視しながら練習していた。
先生からの宿題は、まだ終わっていなかった。
正確には、発動させてからの出力変化は、学院にいた残りの二年間でできるようになっていた。ただ、あのとき私が言ったのは「以上のことを見せる」だった。できていれば達成という話ではなく、その先を、私に課した言葉だった。その「以上」が何なのかを、ずっと探していた。
今日、スーリィに教えながら、胸の奥で何かがかすかに動いた。
スーリィは最初、影が先に出た。後から光が続いた。二つの属性はほぼ同時に現れたが、わずかに時間がずれていた。あの光景を追いながら、頭の中で道が見えた。
最初からの二重発動ではなく、一つを発動させてから、もう一つを重ねる。
私のは、始めから二重発動するつもりで精霊と対話することが前提で、途中で切り替えるのは、その前提とは違っていた。それが「以上」と呼べるかどうか、試してみるしかなかった。
炎をイメージして、発動と感応の意識を混ぜた。そこに石のイメージを加えて、意識を二つに向けた。
炎は、現れなかった。石も、出なかった。順序を逆にしても同じだった。
どうして?
浮かんだのは、二つだった。一つは、二つ目への注意が強くなりすぎて一つ目を押し流してしまうこと。もう一つは、発動から発現までの速度をそれぞれ個別に調整する必要があること。
出力の変化はできるようになっている。二つの精霊術をそれぞれ別々に出力変化させることも。精霊への意識は均等に保ちながら、出力の内容だけを変える。それを応用すれば、発動速度への使い方もできるはずだった。
整理して、もう一度試した。
火のイメージで意識を繋いだ。熱が集まり始める感触があった。石のイメージを、火を手放さずに添えた。二つの間で意識が割れかけるのを、引き戻した。火への感触を保ったまま、石への注意を育てていった。
炎と石が現れた。でも、同時ではなかった。それでも、かなり近かった。もう一度。今度はもう少し近かった。もう一度。ズレた。
できてはいない。でも、手応えがあった。
先生がいれば、バランスの乱れも発動速度の差も見て教えてくれるだろう。でも先生はいない。スーリィも地道に繰り返して完成させようとしている。同じようにするだけ。
何度も繰り返した。
次の日も続けた。意識のバランスがわかってきた。一つが掴めれば、残りは発動速度に集中すればいいだけになった。そうなったとき、「あっ」と声が出た。
少しズレた。それでも、進むべき方角は見えていた。確信があった。
もう一度、試した。
火のイメージで意識を繋いだ。少し遅らせて石のイメージを滑り込ませた。分けずに、溶かす。この感触ならいい。バランスを保ったまま、速度を近づけていった。精霊が両方に向かって動いていた。
発現させた。二つの気配が重なった。
同時、という感触があった。
いつもの、あの感触だった。
――できた。
息を吐いた。汗が冷えて、背中に夜気が触れた。
精霊の気配が、そっと揺れた。動揺や不安ではない揺れ方だった。おめでとう、という気持ちが込められているような気がした。私がそう感じたいだけかもしれない。でも、それでいい。そうであってほしいから。
ふと周りを見ると、夜が深くなっていた。
空を見上げた。冷えた夜気の中に、満天の星が広がっていた。
先生のことを考えた。教えてくれたことは確かなのに、どこにいて、何者なのか、今もわからない。でも、そのわからなさはずっと前からそこにあって、今夜はその意味が違っていた。
「これで、いつでも自信を持って会えますよ、先生」
思わず、声が漏れた。誰に届けるわけでもない言葉が、星空の中に消えていった。
先生はどこかで、今も何かを見ているのだろうか。その先生に、今日のことを話す日がきっと来る。それだけでよかった。




