第92話 帰ってきた稽古場
(リュート視点)
グランヴァルクを発って数日後の朝だった。
庭に出ると、草には、まだ夜露が残っていた。
朝の空気は冷えていて、吐く息がわずかに白くなった。五月とはいえ、日が上りきるまでは冬の名残があった。父さんと兄さんはすでに準備を済ませて立っていた。
同じ庭。同じ木剣。幼い頃、父さんに最初の一本を渡されたのもここだった。あの頃から変わったものもあれば、変わらないものもあった。
素振りから始め、足捌きを確認して、打ち込みへ移った。
兄さんの打ち込みを最初に受けて、手首に伝わる感触が違うことに気づいた。重さではない。軌道が変わっていた。精度が上がった剣を受けると、体が正直に反応した。以前と同じはずの木剣が、別の角度で手首に響いてきた。
小休憩に入ったとき、息を整えながら言った。
「兄さん、相当父さんに扱かれたみたいだね」
「そうだな。でも、それは俺が頼んだんだ」
「そうなんだ。……どうして?」
言葉はなく、片側の口角が少し上がった。上がる前の一瞬、視線がわずかに沈んだ。次の打ち込みが始まった。
それ以上は聞かなかった。
打ち合いに移ると、兄さんの変化はさらにはっきりした。体捌き、間合い、速度、すべてに刷り込みの深さが出ていた。五本のうち一本取れたのは、足元の窪みに兄さんの視線が引かれた、その一瞬の隙をついた時だけだった。
「兄さん、どれだけ、父さんに、扱かれたのさ。どうして、そんなに、強くなってるの?」
木剣から手を離し、大の字に倒れ、息も絶え絶え聞くと、兄さんは「聞きたいか?」と涼しい顔で返してきた。
その顔を見れば、十分だった。
「いや、いいよ」と首を振った。
兄さんが声を出して笑った。
「リュート、休んでいる暇はないぞ。次は俺とだ」
父さんが木剣を差し出してきた。それを立ち上がりながら受け取り「……はい」と返すのがやっとだった。
向き合うと、纏う空気が、兄さんとはまるで違った。兄さんの気配は鋭かった。だが、父さんのそれは、静けさそのものが重さになる感じがした。立っているだけで、空気が変わるような。どう打ち込んでも弾かれる気がした。
向き合い続けても仕方がないと、それでも踏み込んだ。
弾かれた。すぐ後ろへ飛んで距離を取った。飛んだ場所を父さんの木剣が通り過ぎていた。
以前の俺には、この圧はわからなかった。
成長したと思うのと同時に、その距離がどのくらいあるかをはっきりと見せられた。
打ち合いを続けた。指導の範囲だとわかった。それでも精一杯だった。
稽古が終わって礼をすると、父さんが俺を見た。何か言いかけるように息を吸い、何も言わなかった。それから視線をゆっくり動かした。その視線は、いつもよりわずかに遅れて動いた。ひとつ息をつき、木剣の先をゆっくりと地に下ろした。
「……汗の始末をしたら行くぞ」
「はい。ただ、少しは休んでからでもいいのでは——」
「いっぱい働いてもらう、って言ったろ」と兄さんが笑顔で遮ってきた。
「そんなに飛ばしたら倒れるよ」
「大丈夫、精霊術があるだろ」
「……鬼になったね、兄さん」
三人で笑った。
そこで稽古は終わった。
――――――
葡萄畑に出ると、土の匂いがした。
学院では習わない仕事が多かった。ただ、知っている顔が多いこの土地では、仕事として歩くことと、帰ってきた者として歩くことの境界が曖昧だった。村の人たちはいつもと変わらない声で呼びかけてくれた。
見回りをしていると、知らない顔が増えていることに気づいた。
確認すると、他の領地から移住してきた人が増えているとのことだった。別の訛りで話す声、見たことのない結び方の荷台。若いワインが思いの外うまくいっているようで、それを目当てに人口が少しずつ増えているという。
気づいたら、口元が緩んでいた。
なぜそうなるのか、考えかけてやめた。それでも、この土地が実っていることを見ると、思い出す顔があった。
精霊のざわめきも、帰ってきた日より近くに感じられるようになっていた。
稽古と公務に追われていると、余計なものを考える時間が減る。迷い魔のこと、エリンのこと——それらが消えたわけではない。ただ、動いている間は奥に沈んでいた。精霊は、そういうときの方が近くにいる気がした。良いことかどうかはまだわからない。
ただ、精霊は確かに、近かった。




