第91話 また来ます
(リュート視点)
市場をぶらぶら歩いているうちに、ちょうどよい時間になっていた。そこで、ヴァルデンブルク辺境伯邸へ向かった。
「今日も夕食を食べていけとか、泊まっていけとか言うかな?」と聞いた。
「言うでしょうね。わざわざ少し遅めの時間を指定してきたんだもの」アリシアが答えた。
「だよな……」
「嫌なら断ったら?」と笑いながら言ってきた。
「断れないだろ。嫌ってわけじゃなくて、緊張しながら食べても味がわからなくなるから」
「もう緊張しないでしょ」
「どうだろ……」
そんな話をしているうちに、辺境伯邸に着いた。
門番に挨拶すると、前回と同じ執事が迎えに出てきて、応接室へ案内してくれた。間取りも、調度品の位置も、以前と変わっていなかった。窓から見える中庭の木が、緑を深めていた。
しばらく待っていると、ヴァルデンブルク様が入ってきた。
立ち上がろうとすると、手で制されて対面の椅子に腰を下ろされた。
「久しいな。精霊術学院を卒業したそうだな」
「はい。本日はそのご報告をと思い参りました」アリシアが先に答えた。
「ヴァルデンブルク様のご助力のおかげで、無事卒業することができました。ありがとうございました」と続けて、頭を下げた。
「今後はどうするつもりだ?」
ヴァルデンブルク様の視線が、わずかに鋭くなった。
「はい。まず数年はブランデル領で経験を積もうと考えています。その後、もしよろしければ、ヴァルデンブルク様の領地で仕事ができればと思っています」
「私も同じように考えています」とアリシアも続いた。
「ほう」とヴァルデンブルク様が声を出し、次の言葉が出るまで少し間が空いた。
「いくつか確認しておこう。まず、すぐにではなく、数年の猶予を置く理由は何だ?」
「理由は三つあります。一つ目は、経験を積むためです。二つ目は、恩返しです。三つ目は、次世代の育成です」
そこまで言って、一息ついた。
「俺たちは一ヶ月前まで学生でした。学院の授業は受けていますが、現場と授業は違うと思っています。まだ即戦力とは言えません。ブランデル領への恩返しをしながら公務の経験を積みます。その一環として、妹のスーリィに精霊術を教え、成長させます。それは結果として俺たち自身の精霊術も成長させることになると考えています」
「そうか。では、そのように思い入れのあるブランデル領から、我が領へと移す理由を聞かせてもらおう」
「恩を返すという気持ちもありますが、ヴァルデンブルク領は帝国との国境を守る要所です。ヴァルデンブルク領を守ることは、ブランデル領も、王都も、王国全体を守ることに繋がります。俺個人の力でどうにかなるとは思いませんが、それでも力になれるよう励むつもりです」
言い終えてから、自分でも少し驚いた。どこからそういう言葉が出てきたのか、はっきりとはわからなかった。ただ、嘘ではなかった。
アリシアが俺を見た。俺の顔を見ているのに、俺を見ていないような目だった。確かめる前に、ヴァルデンブルク様の視線がアリシアへ向いた。
「アリシア、君はどうだ?リュートと同じか?」
「即戦力や王国を守るというところまでは考えていませんでしたが、概ね同じです。ただ、私の精霊術はリュートには及びません。そのため、守るというよりは支えたいという気持ちの方が強いです」
アリシアはヴァルデンブルク様の顔をまっすぐ見て答えていた。
本心から来ていることが、わかった。
「うむ。わかった」
その後は王都の話やブランデル領の話をして、面会は終わった。やはり夕食と宿泊を勧められた。予想通りだったが、その通りだったことが少し可笑しかった。
――――――
夕食は、前回と同じく、アマーリエ様も席に着いた。
学院生活の話、王都の話、グランヴァルクの話をしながら、料理が進んだ。アマーリエ様は穏やかで、相変わらず話の流れを自然に引き出すのが上手かった。気がつくと、こちらが話すつもりもなかった話を気持ちよくしていた。
話が途切れかけたところで、アマーリエ様がアリシアの方を見た。
「アリシアさん、もしかしてその髪飾りは、グランヴァルクの市場で買われたのではないかしら?」
「その通りです。どうしてわかったのでしょうか?」アリシアが驚きながら肯定し、聞き返した。
「ふふっ、私が育った街の装飾品ですもの。見ればわかりますわよ」
やり取りを見て、なるほどそういうものかと思った。念のため、アリシアに目を向けると、アリシアも同じように驚いていた。どうやら、必ずしも女性全員がそうというわけではないらしい。
「それに、それはリュートさんが買って差し上げたものですね?」アマーリエ様が言い当てた。
「どうしてわかるのですか?見ていらっしゃったわけでもないと思いますが……」思わず聞いた。
「見ればわかりますわ」と笑顔で答えてくれたが、理由を考えてもわからなかった。
「あまり困らせるものではないぞ」とヴァルデンブルク様が諌めた。
「このくらいはいいのですよ」とアマーリエ様がイタズラっぽく答えた。
アマーリエ様が何を考えてそう言ったのか、理解はできなかった。アリシアを見ると、少し赤みが差しているように見えた。なぜかと尋ねようとして、やめた。
食卓の蝋燭が短くなる頃、話が落ち着いた。その夜は客室に泊まらせてもらった。
――――――
翌朝、朝食をヴァルデンブルク様、アマーリエ様と四人でいただいた。
外の光は穏やかで、鳥の声が窓から入ってきた。アマーリエ様は昨夜と変わらず穏やかで、自然に話題を引き出しながら朝食を進めた。アリシアは少し口数が少なかった。昨日の午後に見えた、あの一瞬の目の様子が、まだ気になっていた。尋ねようとして、うまく言葉にならなかった。
昨夜の話の続きをしながら、果物とパンと温かいスープを食べた。アマーリエ様がグランヴァルクの市場の話をしてくれて、まだ行ったことのない区画のことを教えてもらった。次に来る時には行ってみようと思った。
食事が終わると、アマーリエ様が「お茶はいかがですか?」と言い、もうしばらく話した。それから自然に、腰を上げるタイミングが来た。
「また来ます」
アリシアが言い、俺も続けた。
「俺もまた来ます。お世話になりました」
「待っていますよ」とアマーリエ様が言った。ヴァルデンブルク様は短くうなずいた。
執事に見送られ、辺境伯邸の門を出た。
グランヴァルクの街路に出ると、朝の光が石畳に降りていた。前日より空が高い気がした。人の往来が始まっていて、荷車が一台、ゆっくりと通り過ぎていった。
少し歩いたところで、アリシアが顔を上げた。昨日の午後から少し翳っていたものが、整理されたのか、それとも持ち直したのか——どちらなのかはわからなかった。ただ、顔が戻っていた。
「緊張しながら食べると味がわからなくなるって言ってたけど、昨日はどうだった?」アリシアが歩きながら聞いてきた。
「まあ、そこまでじゃなかったな」と答えた。
「成長したんじゃない?」と笑いながら言ってきた。
成長したのかどうか、まだわからなかった。ただ、二年前の自分より少し遠くまで来た気はした。答えの出ていないことも、どこかへ置き忘れたわけでもなく、ただ持ったまま歩けるようになってきた——そんな感覚だった。
「そうかもしれないな」と返した。
「帰ろうか」アリシアが言った。
「そうだな」と答えて、歩き始めた。
石畳を踏む音が、二つ並んで響いていた。




