第90話 答えはまだ
(リュート視点)
五月の上旬、俺とアリシアはグランヴァルクに来ていた。
黒槍塔は高くそびえ、その周囲の空気は引き締まっていた。鉄と香辛料の匂い。およそ二年ぶりに来たが、塔の高さも色も変わっていなかった。
精霊のざわめきも、変わらなかった。ブランデル領ほどの深さはないが、落ち着いていた。
以前と同じように、まず教会へ向かった。
受付でホフマン神官とベルクマン神父への取り次ぎを頼み、入口の椅子でしばらく待った。教会の内部も、何ひとつ変わっていないように思えた。石造りの壁、磨かれた木の長椅子、奥の祭壇から漏れる蝋燭の光。約二年前とまったく同じ静けさが、そこにあった。
しばらくして、二人が出てきた。
「また大きくなりましたか?」ホフマン神官が言い、「また訪ねていただいて、ありがとうございます」とベルクマン神父が続いた。
「無事に精霊術学院を卒業することができました。そのご挨拶をと思いまして。学院への入学をお勧めいただき、ありがとうございました」と言って頭を下げた。アリシアも一緒に下げた。
「いえいえ、それはお二人が努力されたからです」とホフマン神官が応え、「学院での四年間はいかがでしたか?」と続けた。
「四年間は、様々なことを経験できました。楽しいことばかりではなく、辛いことや残念なこともありました。でも、それを乗り越えて今があります」
言葉にした瞬間に、それを知った。
乗り越えていないものが、まだあった。
「私もそうですが、それを糧にして、学院で経験したことをこれから活かしていきたいと思っています」アリシアが付け加えた。
「それは素晴らしいお考えです。是非、その想いを忘れずに歩まれることを期待します」ベルクマン神父が言った。
ホフマン神官が、俺の顔を見ていた。
何かを言う気配はなかった。ただ、その視線には静かな深さがあった。長年、懺悔に訪れる人々を見てきた目。俺の中に何かが引っかかっているのを、見てわかっているような。それでも声には出さなかった。——出さないことが、この人の答えだと思った。
「そうですね。お二人に精霊の加護が在らんことを」
ホフマン神官がそう言って、目を閉じた。ベルクマン神父も合わせた。
沈黙が落ちた。
声をかけなかった。ただ、受け取った。それも、学んだことだった。
二人が目を開けた。
「ありがとうございます」と俺とアリシアは伝えた。
「すみません、急に。お二人の言葉を聞いて、祈らずにはいられませんでした」ホフマン神官が言った。
「ありがたいことです。お二人の想いが伝わってきました」アリシアが応えた。
その後、少し言葉を交わしてから、教会を後にした。
外に出ると、春の陽光が石畳を白く照らしていた。
一度だけ振り返り、教会を見た。王都の大聖堂と比べれば、ずっと小さかった。あの大聖堂では、精霊が落ち着いていなかった。圧されるような、緊張した感触だった。ここは違う。精霊がおとなしく、深く、静かにある。なぜそう違うのか、俺にはわからなかった。ただ、あの大聖堂にはなかった何かが、この石造りの小さな建物にはあった。うまく言葉にはできなかった。
アリシアが歩き出した。俺も歩いた。石畳が白く光っていた。
――――――
市場の前回は行かなかった方へ足を伸ばすことにした。
以前に歩いた食品の区域を抜け、角を曲がると、趣が変わった。雑貨や布地、装飾品を並べた店が続いていた。実用品ではないが、見るだけなら飽きない。二人でぶらぶら歩きながら、店先の品物を眺めた。
しばらくして、ある店の前で足が止まった。
飾り物の並んだ木棚の中に、小さな簪型のピンが目に入った。白い花びらが五枚、中央に小さな淡いピンクの丸石。花の直径は二センチほどの、こぢんまりとしたものだった。
スーリィに似合いそうだと思った。
気がつくと、棚の白い花を見ていた。スーリィが喜びそうだという思いに戻った。
「これ、スーリィにどうかな?」アリシアに聞いた時、アリシアの顔がどこかむくれているように見えた。
「……かわいいし、いいんじゃない。スーリィに似合いそう」と言ったが、その顔がどうしてそうなったのかは、わからなかった。
「じゃあこれで」と二本取って、店主に話した。
気がついたら、もう一言添えていた。
「アリシアは何か欲しいのはある?」
アリシアのさっきのむくれたような気配が、晴れたように見えた。
「いいの?じゃあ……」と言って、棚の飾りを物色し始めた。
少しして、「これ」と渡してきた。
長さ六センチほどの、葉の形を模した細長い髪飾りだった。落ち着いた深緑の地に、金の細い線模様が入っている。スーリィの簪とは対照的な、静かな品のある一本だった。
「これもお願いします」と店主に渡し、いくらか聞いた。
店主が意味ありげに口元をゆるめた。「にいちゃん、わかってるな」と言ってから、金額を教えてくれた。
「ねえ、これ、つけてくれる?」アリシアが言った。
「いや、俺がやると変になるから……自分で」と答えた。
それを聞いたアリシアがくすっと笑い、店主は片手で顔を覆って呆れたように息をついた。
どういうことなのかと思いながら、会計を済ませて店を出た。アリシアはその場で器用に髪飾りをつけていた。深緑と金がよく似合っていた。なぜか、しばらく見ていた。見ていることに、少ししてから気がついた。




