第89話 おかえり
(リュート視点)
王都を出て三週間が経っていた。
護衛の隊長に礼を述べ終えて、馬車の馬蹄音が遠ざかるのを聞きながら、ブランドルフの入口へと向かった。
精霊のざわめきが、変わった。
学院を発ってからずっと続いていた感触があった——穏やかなのに、どこか遠くの一点へ引かれていくような、奇妙な引力に似た何か。それがブランデル領へ近づくに連れて、ゆっくりと沈んでいった。沈んでいったというより、深くなっていった、と言う方が近いかもしれない。
足の裏から、なじんだ振動が上がってきた。久しぶりだという感触。精霊たちが、長い旅の帰りをただ静かに受け取るような感触だった。
喜んでいるのか、確かめているのか。それ以上はわからなかった。
ただ、懐かしい土の匂いが広がっていた。
草の青い匂い。日に温まった地面の、乾いた土の匂い。道の傍らに咲いた白い小花の、かすかな甘さ。胸の奥で引っかかっていた何かが——あの戦いの後からずっと、指の間に砂が残るような感触で続いていたものが——少しだけ、ほぐれた。ほんの少しだけ。
村の入口に、人が集まっていた。
遠くからでもわかった。ガレス様とマリナ様、エリオット様、兄さん。アリシアの家族と俺の家族が並んで立っていた。それだけでなく、顔見知りの村人が何人もその周りを囲んでいた。
スーリィの姿を探した。すぐに見つかった。父さんと母さんの隣に、少し背が伸びた妹が列に並んで立っていた。肩のあたりで切りそろえた淡い若葉色の髪が、春の風にわずかに揺れていた。一年八ヶ月前、王都へ発つ朝、スーリィは人の間をすり抜けて飛びついてきた。今日は違った。皆と同じように整列して、まっすぐこちらを見て、笑顔でいた。
嬉しいような、どこか寂しいような——どちらとも言いきれない何かが、胸の中を静かに通り過ぎていった。
「おかえり」
誰かが言い、その声が波のように広がった。
村人一人ひとりに頭を下げながら、家への道をゆっくり歩いた。踏みしめるたびに土がわずかに応えた。王都でも、旅の途中の町でもない。ブランデル領の道の、馴染んだしなやかさだった。木々の梢から傾いた春の光が差して、道が細かく輝いていた。
分かれ道でアリシアと一旦別れた。「荷物置いたらすぐ来てね。夕食会が始まるから」という声を背中に受けながら、俺は家の方へと歩いた。
木造の外壁、青みがかった鎧戸。一年八ヶ月前と変わっていなかった。玄関の前に立って、少しだけ止まった。理由はうまく言えなかった。ただ、この扉を開ければ帰り着いたという事実が定まってしまう気がした。旅の途中でいる時間が終わる。それが、少しだけ惜しかった。
扉を開けた。
「ただいま」
声が漏れた。
間があった。
「おかえり」
母さんの声が先に届いた。続いて、スーリィの「おかえり」が重なった。
振り返ると、四人が揃っていた。母さんが笑っていた。スーリィも笑っていた。父さんと兄さんが、奥から静かにうなずいていた。
また家の方へ向き直った。少しの間があって、一歩踏み込んだ。靴を脱ぐと床の感触が変わった。学院の廊下でも、寮の部屋でも、旅の宿でもない。アーデン家の床の、踏み慣れた硬さだった。
「荷物を部屋に置いてきなさい。支度したら館に行くわよ」母さんが言った。
「ありがとう」と答えて、荷物を抱えて二階へ上がった。
部屋の扉を開けると、一年八ヶ月前のままだった。机の位置も、窓の向きも。埃は丁寧に払われていた。誰かが定期的に掃除してくれていたのだろう。窓の外から、傾きかけた春の光が差し込んでいた。
荷物を床に置いて、一度だけ深く息を吸った。
前回戻ってきた時の方が、離れていた期間は長かった。なのに、今回の方が、ずっと長く離れていたような気がした。
ようやく帰ってきた。
そう思ったが、その言葉の奥に、まだ何かがあった。今は、久しぶりのこの家の空気を吸うだけでよかった。
支度を整えて、館へと向かった。
――――――
夕食会は、にぎやかだった。
領主の館の食堂に長卓が据えられ、両家が顔を揃えていた。蝋燭が幾本か灯り、食器の音と笑い声が重なり合っていた。ガレス様、マリナ様、エリオット様——それぞれの顔が、どれも見慣れたままだった。長く離れていた割に、この顔ぶれは全然変わっていない。そう思うと、俺たちだけが旅をしていたような気がした。
学院のこと、精霊術のこと、王都のこと、精霊術大会のこと、卒業試験のこと——話は次々に出てきた。迷い魔のことは、さらりと触れるにとどめた。
「お兄ちゃんもアリシアお姉ちゃんも、もっと強くなった?」精霊術の話になったところで、スーリィが聞いてきた。
「どうだろうな」と答えた。
「後で見せてあげるね」とアリシアがスーリィに向かって笑った。
しばらくして、ガレス様が口を開いた。
「今後はどうするつもりだ?」
「少し落ち着いたら、ヴァルデンブルク様に卒業の挨拶に参ります。明日には日時の確認の連絡をして、返事が来たらそれに合わせて出発するつもりです」と答えた。アリシアが「出発するまでは家の手伝いをしながら、スーリィに精霊術を教えるつもりよ」と加えた。
「戻ってくるのか?」父さんが聞いてきた。
「戻ってきますよ。挨拶しにいくだけですから」と答え、父さんの顔を見ながら続けた。「ただ、何年後になるかはわからないですが、いつかヴァルデンブルク様の元で働こうと考えています。受け入れてくれたら、ですが——恩にはきちんと報いたいと思います」
「そうか」
父さんが小さくつぶやいた。何かを言いかけて、そこで言葉を飲み込んだ。いつもならすぐに表情を戻すはずなのに、今回は違った。しばらく俺を見ていた。その目は、俺の知っているものではなかった。誇らしさとも、寂しさとも違う——別の何かだった。父さんはひとつ息をつき、グラスへと手を伸ばした。
「アリシアは?」マリナ様が尋ねると、「私も同じかな。ヴァルデンブルク様のところで役に立てるように、まず領地の仕事のことを覚えてから行こうと思ってるよ」とアリシアが答えた。マリナ様が少し寂しそうな顔をしたが、ガレス様はうなずいていた。
「じゃあ、二人ともしばらくは俺と兄さんを手伝ってくれるわけだな」エリオット様が楽しそうに言いながら、兄さんを見た。
「そうですね。最近忙しくなってきていますし、今のうちにいっぱい働いてもらいましょう」兄さんが笑った。
「アリシアとリュートは私たちの方だぞ」ガレス様が短く遮った。
「あらあら、では両方手伝ってもらえばいいじゃない」
マリナ様の言葉に四人が同時に黙った。
「私が精霊術を教えてもらう時間は残しておいてよ」スーリィが乗っかってきた。
「スーリィ、そこは「精霊術を教えてもらうんだから、ダメ」じゃないのか?」と聞いた。
「え?だって、一日中精霊術の練習なんてできないもん」スーリィが真顔で答えた。
「そうよ。スーリィはスーリィですることがあるもの」母さんがスーリィの顔を見ながら言った。スーリィが視線をそらした。
察して、何も言わなかった。
「リュート、私の分も頑張ってね」アリシアが笑いながら言ってきた。
「それはずるいだろ」と俺も笑った。
「二人ともしっかり頼むぞ」
ガレス様がそう言って、逃げ場がきれいになくなった。
館を出る前、アリシアが「楽しかったね」と小さく言った。「そうだな」と返すと、彼女は手を振って館の奥へ戻っていった。
外に出ると、春の夜気がひんやりと頬に触れた。
帰り道は静かだった。
――――――
家に帰り、その日はそのまま休むと伝えて、自室に入った。
部屋の空気は、夕方より少し冷えていた。窓の外には、春の夜の暗さがあった。月が細く、星は多かった。
灯りをつけると、部屋の隅に土の上位精霊がいた。待っていたわけでもなく、迎えたわけでもない。ただそこに在る、という静けさで。以前と変わらなかった。
「お前は感じるか?」
思わず声が漏れた。
精霊は答えなかった。答える必要があるとも思っていないような静けさで、ただそこにいた。
剣を振り抜いた瞬間に聞こえた声が、まだ耳の奥にあった。
音になりかけたまま途切れた——「隊長、申し訳——」という声。それより前に、精霊が触れた一瞬だけ、あの迷い魔の目が落ち着いていた。その静かな目を見ながら、俺の剣が届いた。剣先が当たった感触が、まだ手の中に残っていた。
あれは正しかったのか。
答えは出ていない。出せないまま卒業式を迎え、馬車に揺られて三週間の道のりを越えた。それでも、こうして帰ってこられた。今夜はそれで十分だった。今は、久しぶりの実家で、皆に心配をかけないように過ごすだけでいい。ただそれだけを自分に言い聞かせた。
精霊が、わずかに揺れた。
灯りを消して、目を閉じた。




