第88話 手のひらに
(リュート視点)
四月一日、卒業式の朝。
空は晴れていた。春が訪れ、学院の石畳に柔らかい光が差していた。礼服を着た四年生たちが列を作った。
四十名いるはずだったが……三十九名だった。
誰も、その空白について声に出さなかった。ただ列の中に、一人分の空白があった。その空白は、列の中で静かに沈んでいた。誰も触れないのに、そこだけ空気の密度が違っていた。隣に立つ生徒が、その空白の方を一度だけ見て、また前を向いた。
アルトリース学院長が一人ひとりに証書を手渡した。
名前が呼ばれた。
壇へ向かう石畳の感触が、入学の日とは違う密度を持っていた気がした。四年前、この石畳を初めて踏んだ時は、ただ冷たさしか感じられなかった。入学式の日、アリシアはクラリスと並んで座っていて、俺は少し離れた場所から式が始まるのを待っていた。今は同じ列に並んでいる。その冷たさの奥に、積み重ねた時間があった。
壇上に立ち、証書を受け取った。
手のひらに、まだあの感触が残っている気がした。剣を握り、振り下ろした、あの重さ。四年間、ここで積み上げてきたものの先に、あの一撃があった。それが正しかったのかどうか、まだわからなかった。
一瞬だけアルトリース学院長と目が合った。何も言われなかった。ただ、その目は覚えていた。以前の面談の時と同じ目だった。
壇を下りた。
まだ答えは出ていない。
列に戻る前に、一度だけ振り返った。ユリウスが背筋を伸ばして壇に向かう後ろ姿が見えた。アリシアが前を向いていた。クラリスが目を細くしていた——泣いているのか、光が眩しいのか、遠くてわからなかった。
全員いた。ただ、それで十分だと思えない自分がいた。
――――――
(ユリウス視点)
式を終えてから、訓練場の方角を見た。
あの爆裂の精霊術——まだ到達点ではない。あれの先に、本当に見せるものがある。あれは片鱗だった。
アーデンの後ろ姿を見た。あいつはまだ、あの迷い魔のことを考えているだろう。それでいい。答えが出ないままでも動けるのが、あいつだから。
「……アーデン」
声に出すつもりはなかった。遠くにいるアーデンには届かない。しかしここで呼ぶのは「アーデン」でいい。「リュート」と呼んだのは——あの一瞬だけで十分だった。
自分の口から出た言葉を、出した後で初めて意識した。
気づいていなかった。あの森の中で、あいつの名を呼んだ。頭より先に声が出ていた。
それを、今ここで噛み締めている。
おかしなことだ、と思った。ただ——それだけのことが、どうしてこんなに重い。
――――――
(ドミニア正教国 聖都ドミナリス)
ドミナリウム主聖殿の最奥にある八聖典殿の議事の間。
八つの椅子が、八角の卓を囲んでいた。採光窓は高い位置にあり、差し込む光は細く、部屋の下半分には届かなかった。その薄い光の中で、八つの人影が着席していた。
この場で下される決定は、人界のいかなる王権にも覆せない。
一人が書状を卓の上に置いた。他の七人が、それぞれの速度でそれを見た。
短い沈黙が落ちた。その一瞬、空気がわずかに重くなり、静かに閉じた。
「異議は?」
声が出た。他の七人が答えなかった。それが答えだった。
「——全会一致。以上をもって、異端審問調査の開始を決定する」
名前が、議事録に書き込まれた。
——リュート・アーデン。
書かれた文字は、一度書かれればもう消せない。それだけのことだった。それだけのことで、何かが動き始めた。
――――――
(リュート視点)
卒業式を終え、学院前の馬車寄せに立っていた。
空が広かった。春の光の中で、精霊がざわめいていた。いつもの、穏やかなざわめきだった。
——何も変わっていない、ように見えた。
でも何かが、変わっている気がした。
それが何かはわからなかった。ただ確かに感じた。あの冬の森から戻ってきて以来、精霊のざわめきの質が少しだけ変わっていた。穏やかなのに、どこか遠くの一点へ向かっているようなざわめきだった。
「リュート。お待たせ」
アリシアが走ってきた。
「遅いぞ」
「ごめんって!」
アリシアが笑った。少しだけ、表情が緩んだ。
——今はここだけでいい。
馬車に乗り込んだ。御者が手綱を引き、馬が動き出した。学院の門が、後ろに遠ざかっていく。春の風が窓から流れ込んで、髪を揺らした。
精霊がざわめいていた。穏やかに、でも確かに——先を見ていた。




