第87話 二人分の静けさ
(ヘルミーネ視点)
学院長室。四年生たちが王都に帰還し、私は椅子を引かずに、立ったまま報告を聞いていた。
エーレンバルトの声は終始抑えられていた。迷い魔の出現と討伐。教師・生徒の負傷状況。エリン・フォン・カーヴェルの失踪。そしてリュート・アーデンの戦闘中の動き——詠唱のない精霊術に近い現象、剣に纏った何か。
報告が終わると、しばらく沈黙があった。
「負傷した生徒と教師の状態を最優先で確認してください。カーヴェルさんについては、私から王宮と近隣領への協力依頼を今日中に出します」
エーレンバルトが退室し、一人になった。
机の前まで歩いて、立ったままそこに手をついた。立ち上がれないのではなく、座る気になれなかった。
「……無事でいてくれれば。それだけで……」
声は誰にも届かなかった。
――――――
その日の夜。
書類の前に座っていたが、羽ペンが進んでいなかった。文字を書こうとして、視線が紙の上で止まる。また書こうとして、また止まる。その繰り返しだった。
リセルが学院長室を訪ねてきた。
入ってきた時の足音が、いつもより遅かった。
「捜索中に、精霊に協力を求めたわ。エリン・フォン・カーヴェルのことを聞いたの」
羽ペンを置いた。置いた、というより、手から力が抜けた。
「何かわかった?」
リセルが一度だけ息を整えた。
「……迷い人になっているわ」
その言葉を、最初は聞き取れなかった気がした。聞こえていたのに、意味が胸に落ちるまで、しばらく時間がかかった。
「迷い人」
繰り返した。声に出したのか、頭の中で繰り返しただけなのか、自分でもわからなかった。言葉としては知っている。ただ、それは知識の中にある話であって、生徒に使う言葉ではなかった。
「……どういうこと?」
「迷い魔との戦闘の混乱の中で、迷い魔の影響と思われる空間の歪みに巻き込まれたみたい」
リセルが一拍置いてから続けた。
「生きては、いるはずよ。向こうから来た迷い魔が生きているのだから……」
その言葉で、少しだけ息ができた。しかし、リセルの声は止まらなかった。
「ただ、迷い人が戻ってきた、という話は聞いたことがないわ……」
その言葉が机の上にそっと落ちて、部屋の空気が固まった。
しばらく、何も言わなかった。窓の外は暗く、リセルも口を開かなかった。
手がわずかに震えていたが、すぐに収まった。
「……そう。この情報は当面、私とあなたの間だけにさせて」
「そうすると、表向きの捜索は続けるのね」
「……そうね」静かに頷いた。
学院長室には、二人分の静けさだけが残った。私も動かず、リセルも動かなかった。窓の外の暗さだけが変わらずそこにあった。
――――――
(王都グランツィリア ハルトヴィン邸)
ラインハルトが父のヴォルフガングのもとを訪れ、卒業試験の報告を行っていた。
迷い魔の出現と討伐の経緯。そして、戦闘中に目撃したこと——詠唱なしで、剣に精霊術に似た何かを纏わせた生徒の存在を。
「詠唱での精霊術ではあり得ない現象でした」
ヴォルフガングは黙っていた。何かを考えていた。その顔が何を読んでいるのか、ラインハルトには読み取れなかった。
――――――
(グランツィリア大聖堂 ルーフェンの私室)
高い石造りの天井に、細い採光窓から白い光が落ちていた。その光の中で、ルーフェンは机の前に座り、届いたばかりの書状に目を通していた。書状を持つ手が、一点で止まった。
詠唱なしで剣に精霊術を纏わせた生徒。リュート・アーデン。
「……これは、困りましたね」
そのつぶやきは、室内に静かに落ちて消えた。
――――――
(グランツィリア大聖堂)
別日。大聖堂の奥の部屋。
グレゴールのもとに情報が届いた。
部屋の中は静かだった。高い天井に、午後の光が斜めに差し込んでいた。その光の帯の中に、小さな埃が漂っているだけだった。
グレゴールは文机に向かい、しばらく動かなかった。目は情報の書状に落ちていたが、何度も読んでいるわけではなかった。ただそこに置いていた。
やがて書状を端に寄せ、新しい紙を引いた。羽ペンを取った。迷いはなかった。決断だけが、静かにあった。宛先を書き始めた——ドミニア正教国の最高機関、八聖典殿。
羽ペンが走る乾いた音だけが部屋に響いた。
書状を書き終えると、グレゴールは封をして傍の鈴を鳴らした。使者を呼ぶための鈴だった。
「調査をしていただきましょう」
その言葉だけが、室内に静かに落ちた。




