第86話 名前だけが
(リュート視点)
迷い魔との戦闘終了直後、フェルウィン先生たちが拠点に戻ってきた。
フェルウィン先生がエーレンバルト先生から状況を聞き、負傷者の確認が始まった。クラウベル先生たちは倒れたままだったが、命に別状はなく、エーレンバルト先生は傷を負いながらも動ける状態だった。生徒も数名が重傷を負い、多くが何かしらの怪我をしていた。
エーレンバルト先生が全員を集めて点呼を取った。
一人ずつ名前が呼ばれていった。
「エリン・フォン・カーヴェル」
エリンが、返事をしなかった。その瞬間、空気がわずかに沈んだ。
その名前だけが、空気の中に取り残された。誰も動かなかった。周囲の生徒がお互いの顔を見た。同じ班の生徒が周囲を見回した。左を向いた。右を向いた。前を向いた。いなかった。
ユリウスの視線が、エリンがいたはずの場所へ向いた。そこには誰もいなかったが、視線は動かさなかった。ラインハルトの表情が険しくなり、エーレンバルト先生へ視線を向けた。
もう一度、名前が呼ばれた。
返事がなかった。
「いなくなった瞬間を、見ていた者はいるか?」
エーレンバルト先生の声は静かだった。誰も手を挙げなかった。最後にエリンの姿を確認したのは——戦闘中に、前傾姿勢のまま手を連続で動かしていた場面だった。それが最後だった。その後のことは、誰も答えられなかった。
「捜索する。怪我をしている者はここで待て。それ以外の者は手伝ってくれ」
――――――
皆が手分けして周囲を捜索した。
名前を呼んだ。返事がなかった。森の中を歩いた。同じ木を何度か見た。森が俺たちを迷わせているように思えた。土が乱れている箇所があっても、それが何かを示しているのかどうかわからなかった。日が傾いてきても、発見できなかった。
捜索の中で、フェルウィン先生が何かをつぶやいているのが聞こえた。精霊に話しかけているように思えた。何を聞いているのかはわからなかった。先生の表情が一瞬だけ動いて、そのまま元に戻った。
フェルウィン先生は、その後、捜索の輪には加わらなかった。少し離れた場所に立って、森の方を見ていた。夕暮れ前に一度だけ、俺と目が合った。「フェルウィン先生」と声をかけ、「何かわからないですか?」と聞いた。フェルウィン先生は何も言わなかった。その目が——何かを知っていて、それでも言えない目だった。ほんの一瞬だけ揺れた視線が、それを物語っていた。それ以上、言葉が出なかった。
「今日はここまでだ。明日、早朝からまた捜索する」
エーレンバルト先生がそう告げた時には、空は暗くなっていた。フェルウィン先生はその声を聞いて、ゆっくりと拠点の方へ向き直った。
翌日も捜索を行ったが、発見はできなかった。怪我人が多数いる中での継続は困難だと判断され、捜索と卒業試験は打ち切りとなった。エリンの捜索は近隣領主へ依頼し、切り替えられた。
残った全員で、王都に帰還した。
――――――
帰還の馬車の中、誰も多くを話さなかった。
アリシアが「エリン、大丈夫かな」と言った。その声は、微かに震えていた。膝の上で両手を組んだまま、視線だけが前を向いていた。
しばらくして、また口を開いた。
「精霊が、何かを知っている気がするんだけど……」
俺は息を小さく吸った。
「フェルウィン先生が、精霊に何か話しかけていた気がした。それで……何かを聞いたような顔をしていた」
アリシアが顔を上げた。
「……フェルウィン先生、精霊と話せるの?」
「わからない……。ただ、そう見えただけ。でも……何かを知っていると思う」
アリシアがこちらを向いた。
「聞かなかったの?」
「聞いた。でも、何も言ってくれなかった」
窓の外を見ていたクラリスが、ゆっくりと顔を向けた。
「何も言わなかったって……どうして?」
「わからない」
それきり、誰も言葉を続けなかった。
ユリウスはずっと窓の外を見ていた。
俺は、目を閉じた。
迷い魔のあの目がまだ残っていた。一瞬だけ落ち着いた目をした気がした——あの瞬間。気のせいだったのかもしれない。それでも消えなかった。
エリンのことも頭の端に引っかかっていた。馬車の休憩の時、ユリウスに話しかけられたエリン。「学院に戻ったら、ね」と言いながら浮かべた、あの静かな笑み。あの笑みが、今は別の重さを持って浮かび上がってきた。
ユリウスの爆裂の精霊術の片鱗と、自分の手の感触がどこかで繋がっている気がした。
答えの出ない問いが胸の奥で渦を巻いていた。今は、何もわからなかった。
馬車が揺れるたびに、エリンの名前を思い返した、あの暗い木立の中の空気が戻ってきた。




