第85話 あの目は
(リュート視点)
俺とユリウスが走り出した。
剣を抜きながら精霊術を同時に展開した——しかし斬撃は速さで弾かれた。術は重さで押し返された。迷い魔は、その二つを同時にこなしていた。体を捻って躱した瞬間、腕が耳のそばで風を切った。速い。
ユリウスが精霊術を放ったが、躱された。足場を変えながら次々と対応していった。迷い魔は戦闘に慣れていた。動きに無駄がない。隙がなかった。
ユリウスと目が合った。ほんの一瞬。その意味は互いにわかっていた。
前へ踏み込む。迷い魔の視線がこちらに向く。斬りかかりはしない。ただ、迷い魔の意識を自分に縫いとめる。
攻撃が飛ぶ。身をひねって躱す。もう一度。
足場が崩れた。それでも止まらない。動き続けた。
その間に、ユリウスが大きく後退して、詠唱を開始した。
「献身の灯火よ、禁欲の枷を断ち、内に満ちよ。静謐を破り、調和を崩して弾けよ。破裂する炎として顕現せよ」
去年の大会でも聞いた詠唱文だった。しかし今は声の質が違った。あの時より重く、あの時より静かだった。命令ではなく——呼びかけとして放たれていた。
火の精霊が応えた。
爆裂の精霊術が放たれた。炎の塊が空気を圧して飛んだ。轟音が遅れて耳を打ち、衝撃波が空気ごと押し込んできた。その精霊術が迷い魔に直撃した。迷い魔がよろめき、大きく体勢を崩した。爆発の熱が頬を打った。
あの大会の後にユリウスに言った言葉が頭をよぎった。
「次はお前の本当の精霊術を見せてくれよな」
——これか。
「リュート!」
ユリウスが叫んだ。
「アーデン」ではなかった。「リュート」と呼んだ。頭より先に体が動いた。剣を構えて踏み込んだ。
迷いは残っていた。助けたかった。もっと別の方法があったかもしれない。
剣を握り直し、地を蹴った。
――――――
(ユリウス視点)
僕はそれを見た。
リュートが走り出した瞬間、柄を握る手の周囲に精霊が集まり始めた。
砂塵が刃に吸い付くような動きだった。刀身に沿って土の精霊術が圧縮されていき、圧縮が進むにつれて結晶化が始まった。
刃が鉱物の層で覆われ、倍近い厚みを持った。完全に纏った状態になった瞬間、刃が深い銀灰色と鈍い金属光沢を帯びた。大地の断層のような重なりが、刃の表面を走っていた。
目を逸らせなかった。あれは何だ。あれを何と呼べばいい。何かが、逆になっていた。リュートが精霊に働きかけたのではない。精霊がリュートに向かって動いた。
あいつと精霊の間で、何が起きたというのか。言葉にできなかった。ただ、今まで見てきた精霊術のどれとも違う、という理解だけが、はっきりしていた。
精霊術とは何か。僕はそれを問い続けてきた。詠唱を磨き、精霊に呼びかけ、炉の熾火のような気配を感じた夜、ようやく掴んだと思っていた。
しかし、あれは違う。あれは——まだ名前すらない。
あいつが見せたものが、今よりずっと先にある。そのことだけが、今、奇妙なほどはっきりしていた。
――――――
(リュート視点)
足元から放射状に地面にひびが走った。何が起きているのか、自分ではわからなかった。ただ剣が、重くなっていた。「重い」のではなく、「重さが宿った」——そういう感触だった。
剣を振り下ろした。
衝撃が空気を割った。音が先に来て、光が後からきた感触。土の結晶が弾け、細かい鉱物の粒子が光を散乱させた。暗い冬の森の中で、一瞬だけ白く輝いた。
迷い魔に当たった瞬間、衝撃が広がった。土の精霊術が触れた場所から地面に吸い込まれるように消えていった。
その一瞬だけ――迷い魔が落ち着いた目をした気がした。
唇が、動いた。
音にならないほど小さかった。それでも、辺りが静まり、その声だけが浮かび上がった。
「……隊長、申し訳——」
気のせいかもしれない。
それでも、その目は——。
迷い魔が、膝をついた。ゆっくりと、重力に従うように体が傾いて、そのまま地面に伏した。
その瞬間、初めて自分の体に意識が戻った。
息が切れていた。両足は地面を踏んでいたが、膝に力が入っていなかった。剣を握る手が、微かに震えていた。
空気が、ゆっくりと流れ始めた。
終わった。その言葉が胸に落ちるまでに、しばらく時間がかかった。
だが、爽快感はなかった。勝った、という感触がない。ただ静かな疲弊と、消えない問いだけが残っていた。
あれは正しかったのか。
答えは——まだ出ていない。
それでいい、とは思えなかった。
でも今は、アリシアたちが無事かを確認しなければならない。
顔を上げた。後方を見た。ユリウスもアリシアもクラリスも、皆が俺を見ていた。




