第83話 迷い魔
(リュート視点)
試験三日目の朝。今日はクラウベル先生の担当区域だった。
昨日と同じように、森の中を歩いていた。魔物を探して進んだ。今日も空は曇っていて、雲合間から差し込む光がやわらかく拡散していた。足音が落ち葉の上でくぐもって鳴った。精霊のざわめきが昨夜からさらに強くなっていた。
木々の間で、空気がわずかに沈んだ。その沈みの先に、人影が立っていた。
最初に気づいたのは俺だった。声を出す前に、足が止まっていた。
全員に手で静止を合図し、ゆっくりと近づいた。
黒に近い深緑の髪。細身だが、しなやかな筋肉がある。胸元に銀の双環の護符。人間と変わらない外見だった——だが、感触が違った。空気の質が違う、という感じだった。昔、レンツ領で経験した感触と重なった。
「……迷い魔だ」
思わず、声に出た。
クラウベル先生が前に出た。迷い魔は立ったまま動かなかった。意識はあるようだが、焦点が合っていなかった。体の重心が微妙にずれていて、立っていることに力を使っているように見えた。呼吸も整っていない。吸う間隔が長く、呼吸のたびに、胸ではなく“体全体”がわずかに沈んだ。人間の呼吸とは違う、どこか歪んだ動きだった。クラウベル先生が少し離れた場所で、白と赤の狼煙を同時に打ち上げた。
――――――
しばらくすると、エーレンバルト先生が到着した。
「何があった?」
「あれを見てください」クラウベル先生が視線で促した。
エーレンバルト先生は迷い魔をじっくりと確認した後、すぐに黄の狼煙を打ち上げた。
――――――
一時間ほど経つと、ほとんどの班が戻ってきた。拠点から最も遠い区画のフェルウィン先生担当の二班だけがまだだった。
エーレンバルト先生とクラウベル先生たち五人が前方に立ち、生徒ではラインハルトと俺がその傍近くにいた。俺の班のユリウス・アリシア・クラリスと、ラインハルトの班のヘルムート・カスパー・イネスが後方に並んでいた。それ以外の生徒はさらに後ろで待機していた。
風が止まった。その時、迷い魔が姿を現した。
全員が警戒した。空気が一層張り詰めた。
その静けさを裂くように、迷い魔が口を開いた。
「……ここは、どこだ?」
「俺は、なぜ、ここにいる?」
声は低かった。言葉はかろうじて成立していた。しかしその声には、焦りと困惑だけでなく——何か別のものが混じっていた。体の外側に向かっていない、体の内側を探るような声だった。
迷い魔が言葉を話した——その事実だけで、全員の空気が変わった。迷い魔は何も言わず、暴れ、破壊を繰り返す。そういう存在だと誰もが知っていた。しかし、目の前の存在は言葉を話した。
迷い魔ではないのか?
頭をよぎったが、精霊から感じる感触はレンツ領での記憶と同じだった。
エーレンバルト先生が声をかけた。
「ここはグランツハイム王国だ。動くな。お前は誰だ?」
迷い魔がその声に反応した。
「グランツハイム王国……?どこだ?」
目の焦点が戻りかけた。と同時に、体がわずかに震えた。両手を見下ろした。手が、震えていた。
「……人界だ」エーレンバルト先生が答えた。
「人界」という言葉が届いた瞬間、迷い魔の表情が変わった。理性が戻ろうとしていた。しかしそれと同時に——呼吸が乱れた。手の震えが腕まで伝わった。目の焦点が合ったかと思えば、すぐに泳いだ。はっきりしてきたように見えた表情が、そのたびに苦しげに歪んでいった。この人界の空気が合わないのか、見ているだけで、迷い魔の体がじわじわと押し潰されていくように見えた。
迷い魔の周囲で精霊がざわついていた。その感触を読んだ。敵意ではない。触れたくない、近づきたくない——そういう反応だった。しかし悪意ある存在への反応とも違った。
「俺が話しかけてもいいですか?」とエーレンバルト先生に小声で言った。
先生が振り返り、俺を見た。
「……待て」
それだけを言って、俺を制した。
「……戻れるか?」
迷い魔が、低い声でつぶやいた。
自分の震える手を見ながら言った言葉だった。誰かに問うているのではなかった。自分に——あるいは、ここにいない誰かに、向かって言っていた。
その声を聞いた瞬間、胸の奥が揺れた。
助けられるかもしれない——その考えが頭をよぎった。レンツ領であの時の迷い魔はすでに理性を失っていた。今回はまだ、間に合う可能性があるように思えた。
しかし、迷い魔の体から何かが溢れ始めた。理解が深まるほど、体の破綻が加速していく——そう見えた。もはや、自分の意志でそれを止めることはできないのかもしれなかった。
エーレンバルト先生が判断しようとした、その瞬間。
迷い魔の目から焦点が消えた。両手が正面に向いた。体の内側から何かが破れて溢れ出すように、急激に膨れ上がった。
「全員下がれ!」
エーレンバルト先生の声が、森に響いた。




