第82話 東の森
(リュート視点)
王都を出発からおよそ二週間。東部森林地帯に到着した。
馬車から降りると、冷たい空気が一気に頬を打った。王都よりも気温が低く、空は厚い雲に覆われていた。周囲は冬の落葉した森で、常緑樹が点在していて、木々の奥は薄暗かった。足元の土は固く、霜で凍りついたままの箇所がところどころに残っていた。松の葉が湿った匂いを漂わせ、どこかで枯れ枝が風に鳴っていた。
森が開けた場所に拠点を設営した。テントを張り、薪を割り、食料を仕分けた。生徒たちが手分けして動いていた。
一段落したところで、エーレンバルト先生が全員を集め、試験の説明を行った。この森は魔素が濃く魔物が多く生息しており、班ごとに各区域での討伐や浄化を成果として評価する、という仕組みだった。試験は翌日から五日間。担当区域は毎朝告知される。担当外の区域への侵入は禁止。緊急時には狼煙——白が教師の呼び出し、赤が緊急事態、黄が全班即時帰還。
「黄の狼煙が上がったら理由を問わず戻れ」
その最後の一言だけが、やけに空気に残った。
――――――
拠点に焚き火が灯った。空が曇っていて、星は見えなかった。王都の夜よりも暗い気がした——光がないというより、暗さそのものに重さがあった。
各班が夕食を囲んでいた。俺たち四人も火の傍に座っていた。炎が橙色に揺れて、全員の顔を照らした。アリシアが湯気の立つ器を両手で持ち、クラリスが膝を抱えるようにして座っていた。ユリウスは火の外縁を見ていた。俺は焚き火の向こうの木立の暗さを、なんとなく見ていた。
この場所で夜を過ごすのは初めてだった。それ以外のことは、あまり考えていなかった。
「精霊が……なんか変だよ」
クラリスがぽつりと言った。
顔を向けた。クラリスは膝を抱えたまま、少し眉を寄せていた。
俺もそれを感じていた。「静寂」とは違う。精霊の注意が、別の方向に引き寄せられている感触だった。落ち着きがない、というより——何かを見ている、という感じだった。
「なにかいるのかもな、この森に」
「魔物とは違う感じ?」とアリシアが聞いてきた。器の湯気が、橙色の光の中で細く揺れた。
「わからない。気のせいかもしれない」
ユリウスは黙って聞いていた。それ以上、誰も言わなかった。
少し離れた場所に、別の班の焚き火が見えた。その傍に、エリンが一人で座っていた。炎を見るともなく見ながら、首元のペンダントを指で押さえていた。その仕草が、この前より少し強いように見えた。
風が吹いて、焚き火が一度大きく揺れた。木々が鳴った。暗い森の奥で何かが動いたように見えたが、すぐに静まった。
夜が深くなり、それぞれが就寝した。
――――――
試験一日目の朝。俺たちは最初の担当区域へ向かった。
森の中は冷えていた。枯れ枝を踏むたびに、高い音が澄んだ空気に響いた。道中で魔物を数体見つけて討伐した。俺が先に動き、ユリウスとクラリスが続いた。アリシアは後方から支援した。言葉を交わすより先に動きが合っていて、連携は取れていた。クラリスが討伐後に「思ったより動けた」と小さく言った。進行に問題はなかった。ただ、森の空気だけが、戦いの最中でもどこか冷たかった。
昼を過ぎる頃から、精霊の気配が変わり始めていた。昨夜感じた「何かを見ている」という感触が、少しずつこちらへ近づいてるようだった。拠点へ戻る頃には、その気配は昨夜よりもはっきりと強まっていた。
試験二日目の朝。今日はフェルウィン先生の担当区域だった。
昨夜から、精霊のざわめきは収まらなかった。森の中を歩きながら、昨日と同じように魔物を探して進んだ。いくつかの魔物を討伐し、気づけば午後になっていた。
違和感を覚えたのは、日が傾き始めた頃だった。
精霊のざわめきが変わった。昨夜までは「何かを見ている」ような感触だった。だが今は違う。精霊たちが息を潜めている——そんな「緊張」があった。それには方向があった。森の奥——担当区域の外の方だった。
「ちょっと待って」
足を止めて、声をかけた。
「精霊が何かを気にしてる。向こうの奥の方だ」
ユリウスがその方向に目を向けた。集中するような目だった。何かを感じようとしているのがわかった。
フェルウィン先生が班の様子を確認しに来た。
「何かありましたか?」
「いえ、向こうの奥の方から嫌な感じを受けていまして」
フェルウィン先生がわずかに間を置いた。先生の目が、俺の言った方角をほんの一瞬だけ見た。その一瞬だけ、表情の奥に硬さが走った気がした。次の瞬間には、穏やかな表情に戻っていた。何も見なかったように。
「そうですか。……ですが、今は試験中です。担当区域外のようですし、あと少し続けましょう」
その後も、向こうの方向を気にしながら魔物を二体討伐し、拠点に戻った。
夜になっても、精霊の注意はずっと森の奥に向いていた。昨夜より、強かった。焚き火を囲んでいても、その方向だけが、少しだけ冷たい気がした。




