第80話 夜明け前に
(ユリウス視点)
夜明け前の訓練場に一人でいた。
石床が薄く霜で光っていた。石床に立つと、吐く息が白く、すぐに夜の空気に溶けた。王都の一月末はまだ深い冬の中にあって、夜明けまでの時間はどこか藍色の暗さを残していた。空には星がまばらで、光が細く鋭かった。
いつもは中庭の東屋だった。屋根があって、雨や霜は避けられるが、風は通り抜ける。それでも落ち着ける場所だった。だが、今日はなぜかここへ来ていた。理由は言葉にならなかった。開けた石床の中央に立って、訓練場を囲む低い壁の向こうの夜空を一度だけ見上げてから、前に向き直った。
ゆっくりと右手を前に出し、手のひらを上に向けた。
「献身の灯よ、我が手に集え」
声は静かだった。
口から出た瞬間、言葉の質が以前と違うとわかった。何がどう違うのかは説明できないが、確かに違った。命じるのとも、頼むのとも少し違う。ただ、詠唱を終えた瞬間、それを感じた。
炎が生まれた。
その瞬間、胸の奥で小さく引っかかるものがあった。揺らがなかった。大会前にあれほど苦しんだ不安定さが、嘘のように消えていた。球体は完全な形を保ち、手のひらの上で静止した。しかし、三年前に戻ったのとは違った。温度が違う。去年の大会で一瞬だけ感じた指先の熱——詠唱のたびに形のないものが内側から満ちてくるあの感触が、今は安定して宿っていた。
炎を霧散させ、また詠唱した。また発現した。同じ結果、同じ感触。
しばらく、それを繰り返した。
――――――
炎を消してから、しばらく手のひらを見ていた。
この熱は、何だ。
詠唱のたびに、同じ場所に、同じ熱があった。術が発現する感覚ではない。触れられたわけでもないのに、内側へ静かに染み込んでくるような——そんな熱だった。
……これが、精霊、か。
声には出さなかった。ただ、胸の奥で何かが静かに腑に落ちた。
ラントベルクが精霊を初めて感じたときのことを思い出した。淡々とした口調で始まった声が、精霊を感じるほどに声の質が変わっていった。感激を言葉にする前に、表情がそれを語っていた。
あの時からずっと、引っかかっていた問いがあった。精霊を感じる、というのが、どういうことなのか。今ならわかる気がした。それは探すものではなかった。
手のひらから視線を上げた。
その時、気づいた。
訓練場に満ちる精霊の気配の中に、一つだけ、明らかに異なる存在があった。いつからそこにいたのかはわからない。力の重さが違う。存在の質が違う。他の精霊が散る火花のようであれば、それは炉の奥で燃え続ける熾火だった——揺れず、消えず、ただ重く、そこに在る。
そしてその精霊が——自分を、見ているように感じた。
距離のある視線だった。試すのでも、威圧するのでもなく、ただ静かに、注視している、そう思った。
三年前、自分の精霊術が暴走したあの時、精霊の気配など何一つ掴めなかった。あの時は、ただ力に振り回されていただけだった。だが、今は違う。そして今感じているものは——同じ精霊のはずなのに、重さが違いすぎた。
何も言わなかった。どう応じればいいかも知らなかった。ただ、もう一度だけ炎を灯した。
小さな炎だった。さきほどまで繰り返した基礎の精霊術でも、大会で放った爆裂の精霊術でもない。ただの、炎。それでも、指の内側にあの熱があった。
炎を消し、立ち上がった。
誰にも言わない。今は、まだ。
言葉に出してしまえば、それで「戻った」と区切りがついてしまう。まだ終わっていない。ここからだ。三年前の状態に戻ることは、通過点に過ぎない。
――――――
訓練場を後にして、石畳を踏みながら父の言葉がふと胸に浮かんだ。
「立て。今日の悔しさを忘れるな。いつかお前が理想とする精霊術を使えるようになれ」
大会後の控室でかけられたあの言葉に、叫ぶように「はい」と答えた。あの時の熱が、今は違う形になっていた。静かに、しっかりと、体の芯に根を張っているような確かさがあった。
誓いはまだ果たされていない。
卒業試験が終わったら、アーデンに見せてやる。あの時、確かに宣言したのだから。
まずは、カーヴェルに再戦を申し込む。あの敗北を精算してからだ。
夜明け前の空が、わずかに白み始めていた。霜が溶け始め、石床に細い水の線が走った。冷えた空気が、少しずつ動き出していた。




