第6話 名前を呼ぶ者
(リュート視点)
翌朝、稽古は体が動いた。
前日よりも速かった。切り返しの一拍が縮まって、踏み込みが地面に吸いつく感覚があった。父さんはそれを見て短く「よし」と言った。それだけで十分だった。
ただ、昨夜の頭痛のことは、まだ気になっていた。足元に何かいる気がしたことも。朝の光の中ではどちらも輪郭が薄くなっていたが、消えてはいなかった。
稽古が終わると父さんは公務へ向かい、俺は道具を片付けた。汗を拭いながら、アリシアをどう励ますか考えた。昨日の帰り道に言った言葉は、根拠があったわけじゃない。あの光が違ったのは確かだったが、何が違ったのかを言葉にできていなかった。もう少し具体的に話せるようになってから行くべきか。いや、待たせるのも——
頭に、刺すような痛みが走った。
足が止まった。目を閉じた。昨夜と同じ痛みだった。鋭く、短く、どこかに押し込まれるような感触。
痛みが引いた。
何かが、頭の奥に流れ込んできた。
言葉ではなかった。音でもなかった。それなのに確かに「何か」が押し込まれてきた。感情の塊のような。緊張、と言えばいいのか。緊迫して、慎重で、恐る恐る、という感触が、頭の内側に直接貼りついた。
「……なんだこれ。感情?」
口に出すと、さらに何かが来た。
《……≡≡》
波打つような、不安定な、伝わっていないかもしれないという焦る感触。
「単語じゃない。……意味の塊?」
《○✦……○✦》
また来た。今度は少し違った。期待が混じっていた。もう一度、緊張しながら何かを呼ぼうとしている感触。
俺にはまだわからなかった。何かを伝えようとしている。でも何を。俺に向けているのかどうかも、確信が持てなかった。
「……俺に、話しかけてるのか?」
俺はうつむき、その何かを探すように集中した。声でも光でもなかった。どこかから来ている、という確信だけがあった。
顔を上げて周囲を見渡した。
足元に、それはいた。
砂粒ほどの光が寄り集まって、丸い輪郭を作っていた。発光体と呼ぶしかない何かで、大きさは両手のひらに乗るくらい。色は土のような深い茶で、輪郭がぼんやりと揺れていた。じっとこちらを見上げていた。
意思があった。それだけは、一目でわかった。
「……お前が、呼んだのか。俺を」
《≡≡✦✦》
また感触が来た。反応はある、でも確信が持てない、という揺らぎと緊張。もう一度、名前を呼ぼうとしていた。
「リュートって呼んだのは、お前なんだな」
《○○○!》
今度は迷いがなかった。喜びが弾けるように流れ込んできた。気づいてもらえた、話せる、という感触が、頭の中で弾んだ。
「……なんか喜んでるみたいだな。お前、精霊か?」
《✧✧□□……▼▼▼≡≡▼▼▼▼□□□》
感触が複数重なった。肯定の静けさ、それから謝罪、壊れる、怖かった、光、強すぎた、止められなかった——という感情の断片が、順番に押し込まれてきた。
俺は少し間を置いた。
「……あの時のことか」
森の夜のことを思い出した。アリシアが泣いていた。何かが弾けて、白くなって、記憶がなくなった。「要するに、助けようとして……やりすぎた、ってことだな?」
《☆☆!……▼▼……✦✦?》
驚きと、それから不安、そして恐る恐る伺うような緊張が来た。全然気にしていないという俺の態度に戸惑っていた。許してもらえるのか、これから仲良くしてもらえるのか、という感触だった。
「気にしてない。いいよ」と俺は言った。
少し考えた。頭に直接意思を送ってくる。それが精霊という存在のやり方なのか。昨夜の頭痛も、これの最初の試みだったのかもしれない。そして昨夜、考えかけて弾かれた仮説——判定板が「精霊との波長」を見ているとするなら、精霊がこうして話しかけてくること自体が、その答えになる。
「俺が板に弾かれたのは、別の理由があるからか?」
《□□▲▲▲▼≡▼□□□▲▲……▲▼▲≡≡》
感触が来た。一度に複数の塊が押し込まれてきた。魂の波長。道具ではない。縛られるのは嫌。自由に、気ままに。共に生きたいと思っていない人間には力を貸したくない。波長が合わなければ反応しない。板はその——
少し間を置いた。
もう一度、頭の中で並べ直した。バラバラに来たものを、順番に繋いだ。
共に生きたいと心から思っていない人間には力を貸したくない。だから、意思が感じられなければ反応しない。板はその意思の代わりに反応する仕組みだ。自由に、気ままに——というのは、その前提として精霊が何者かに縛られることを嫌うから。
それだけのことだった。
「……なるほど。板が見てるのは、精霊への向き合い方なのか」
思ったより正直な仕組みだと思った。そして、アリシアの光が板の外から来ていた理由も、これで筋が通った。精霊がアリシアに直接触れた。板の採点基準とは別の話だった。
「お前を会わせておかないといけない人がいる。ついて来てくれるかい?」
《○◇!》
嬉しそうな感触が来た。それから足元の光が、俺の進む方向へ転がるように動き始めた。
――――――
領主の館までの道は短い。
それでも今日は、いつもより空気が澄んでいた。昨日まで何となくどんよりしていた光が、乾いた葉を透かして金色に落ちていた。土の匂いが深かった。足下の光がついてくる気配がして、俺はなんとなくそれを感じながら歩いた。
励まし方が、頭に浮かんだ。言葉じゃない方がいいかもしれない。
館の扉を叩いた。
しばらくして、扉がギィと重く開いた。アリシアが顔を出した。昨日より少し顔色がよかったが、目のまわりがまだ腫れていた。
精霊は扉が開く瞬間に、足元の土にすっと沈んだ。
俺は視線と顎で庭の方を示して、無言で歩いた。アリシアはうつむき加減についてきた。庭のベンチに腰を下ろすと、アリシアも少し間を置いて隣に座った。
「落ち着いたか?」
「うん、もう大丈夫!」声は明るかったが、表情は固かった。
俺は土の中に沈んでいる精霊の位置を、なんとなく感じながら見た。ちょうど俺とアリシアの中間あたりの地面に、いる気配がした。
「後は任せた!」と声に出して言った。
足元から、叫び声のような感触が飛んできた。
《☆☆☆☆☆!!!》
土から光の輪郭がわずかに浮き上がり、固まった。明らかに動揺していた。アリシアには見えていない。俺はなんとか笑いをこらえた。
アリシアが怪訝な顔でこちらを見た。
「何が? どういうこと?」
「……流石に無茶だったか」言いながら少し笑った。
それからアリシアに向き直った。
「やっぱり、精霊の儀のことは気にしなくていいぞ。むしろ喜んでいいんじゃないか。少なくとも、嫌われてる光じゃなかった」
アリシアが目を細めた。
「……どうして?」
俺は土の精霊を見た。「ちょっと力を貸して」と言った。
手のひらを上に向けて、目をつぶった。
足元にいる精霊の輪郭を、頭の中でなぞった。丸くて、土の色で、何かがぎゅっと詰まったような形。頼む、と念じた。
アリシアを元気づけたい。それにはお前の力が必要だ。
何かが動いた。
手のひらの上で、土が集まり始めた。細かい粒が寄り集まってボコボコした球になり、少し広がって、また収縮した。それが止まった時、手のひらの上に水晶を薄く纏ったような小さい土人形が光を揺らめかせながら乗っていた。精霊と同じ輪郭をした、丸くて素朴な形のものが。
アリシアが声を失った。
俺は土人形を乗せた手をアリシアの方に寄せた。もう一方の手で、精霊のいる地面を指さした。
「この見た目をしている精霊が、そこにいる」
アリシアは土人形と地面を何度も交互に見た。それからリュートのウソだろうかという顔になり、でもこんなウソをつく人じゃないという顔になり、また地面を凝視した。
「……ここにいるの?」
「いる。そしてアリシアも、必ず精霊が見えるようになる」
アリシアが顔を上げた。疑いの中に、小さな期待が混じっていた。
「ホントに?」
「ああ。もう答えは出ている」
庭に、一瞬だけ静かな時間が流れた。土の匂いがした。葉が揺れた。何もかもが穏やかだった。
アリシアがさらに何か言おうとした、その瞬間だった。
土の中から、急に叫ぶような感触が来た。
《≡≡!》《▼▼▼》
ダメだ、聞いてくれない、という感触だった。
「ちょっと待って」と俺はアリシアに言い、地面に視線を向けた。
「どうした?」
《≡✦▼▲》
森、壊れてる——という感触が来た。
俺の背筋が、一瞬で冷えた。
「どうした!? 森が壊れる!?」
答えが来る前に、それは起きた。
《▲▲▲▲!!!!》
来る——という感触と同時に、世界から音が消えた。
一瞬、静寂が落ちた。
それから森が波打った。遠くの木々が根元から押されるように揺れ、葉が一斉にざわめいた。鳥が飛び立った。一羽ではなく、数え切れないほどの数が同時に羽ばたいた。村の中でも森の中でも、犬が吠え、何かが鳴いた。
俺とアリシアは一瞬顔を見合わせ、すぐに周囲を見渡した。
館の扉が勢いよく開いた。ガレス様が出てきて、周囲を一瞥した後、森の方向を鋭い目で見た。すぐ後、父さんも出てきて、同じように森を睨んだ。エリオット様と兄さんも出てきたが、二人は困惑した顔で周囲をきょろきょろと確かめていた。
ガレス様が叫んだ。「家に入っていろ! 絶対に外に出るな!!」次にエリオット様の方を向き、「エリオット!」と名前だけ呼んだ。エリオット様が表情を変えた。目を見開き、すぐに覚悟を決めた顔になって「はい!!」と短く答えた。
父さんが兄さんを見た。
「急いで家に帰って母さんとスーリィを館まで連れてこい! 連れてきたらエリオット様と一緒に皆を守れ!」
それからこちらに向き、強い声で
「リュート、アリシア様と一緒に館の中で待っていろ!」
「はい」
アリシアの手を引いて館に入った。
扉が静かに閉まった。外の音が少しずつ大きくなっていった。
次話は20:00投稿予定です。




