第5話 静けさに揺れるもの
(リュート視点)
その朝は、いつもと空気が違った。
窓から差し込む光は変わらなかった。食卓に並ぶ料理も、父さんが椅子を引く音も同じだった。なのに何かが張り詰めていた。皮膚の内側で何かが微かに逆立つような、うまく言葉にできない感覚が、朝の空気に溶けていた。
外では、風がないのに木の葉が揺れていた。
母さんが鍋を片付ける手を途中で止め、窓の外を見た。
「……今日は、なんだか落ち着かないわね」
独り言のような声だった。俺には理由がわからなかったが、言いたいことはなんとなくわかった。
判定の儀、という言葉が昨日から家の中に漂っていた。その年に八歳を迎える子どもが、精霊術への適性を教会で判定される、あの儀式だ。
食後、父さんが椅子を引きながら言った。
「今朝の稽古はなしだ。着替えを済ませ、身だしなみを整えておけ。汗をかかずに臨む方がいい」
稽古をしても結果は変わらないのでは、と思ったが口には出さなかった。「わかりました」と言って立った。
玄関に三人が並んだ。
「緊張してるか?判定の儀は神に見られる場だ。姿勢を正して臨め」
「緊張してません」
腹の中では、結果が変わるわけでもないのに、と続けていた。姿勢だけは正した。
「しっかりな」兄さんが言った。
「うん」
スーリィが靴下の踵に指を引っかけたまま言った。
「お兄ちゃん頑張って。きっと見えるから」
「ありがとう」
スーリィの言う「見える」が何のことなのか、この時の俺にはわからなかった。ただ、スーリィの言葉には根拠のない確信があって、それがどこから来るのかも不思議だと思った。
――――――
教会へ向かう道は短かった。
母さん、アリシア、アリシアの母マリナ様と四人で固くしまった土の道を歩いた。十一月の朝は空が澄んでいて、葉をほとんど落とした枝の向こうに雲が一枚だけ浮いていた。踏んだ枯れ草がかさりと鳴り、遠くで鳥が一声鳴いて、すぐ静かになった。
アリシアは俺より数歩前を歩いていた。背筋が伸びていた。いつもは「こっちこっち」と引っ張り回すあいつが、今日は口数が少なかった。横顔を見ると口元がかすかに動いていた。何かを繰り返し確認しているような、そういう動きだった。
「緊張してるのか」と俺は言った。
振り返ったアリシアが「してない!」と言ってから、少し間を置いた。
「……少しだけ」
マリナ様が優しく笑った。母さんも笑った。
俺はそれ以上続けなかった。
何かが揺れていた。気配と呼ぶべきなのかもしれないが、その言葉では足りない気もした。空気の中に何かが混ざっていた。木の葉の動き方がいつもと少し違った。土の匂いが、ほんの少しだけ違った。捉えようとすると、もうそこにはなかった。
俺は黙って歩いた。
――――――
教会は領地の中央寄りに建っていた。
石積みの基礎が古びた建物で、苔が裾に広がり、軒先には干し葉の束が下がっていた。開拓から早い時期に建てられたと聞いていて、三十年以上の年月が石の風合いに滲んでいた。冷えた石と甘い草の匂いが混ざった玄関口に、同い年の子どもたちが集まっていた。今年の参加者は十人。俺以外は全員、待ちきれないという顔をしていた。隣の子と声をひそめて話し合ったり、全部光ったらどうしようと笑い合ったりしていた。
アリシアはその輪には入らなかった。俺の隣に立って、開かれた扉の内側をじっと見ていた。
神父が現れた。背の高い男で、衣の裾が足に絡むような歩き方をしていた。皆に向かって片手を上げ、穏やかな顔で「中へどうぞ」と言った。足音が土に吸われながらも、規則正しい歩調だけが静かに続いた。
中に入ると、身廊は薄暗かった。細い窓から光が斜めに差し込み、木の床に淡い帯を落としていた。蝋燭の匂いと祭壇周りの石が放つ冷え、そして長椅子の古い木の匂いが重なっていた。子どもたちが前の席に座り、親たちが少し離れて後ろに続いた。
祭壇の前で神父が立ち、感情の乗らない、しかし丁寧な声で説明を始めた。
一人ずつ判定板に手をかざす。八つすべての水晶が光れば精霊術の適性がある。一つでも光らなければ適性はない。終わったら戻ってよい。
アリシアは真剣に聞いていた。俺はそれを聞きながら、判定板そのものを観察していた。
外周が正八角形。内側を精密な幾何学模様の術式が埋めていた。八つの頂点に水晶が台座ごと付いていた。それぞれのカットがわずかに角度を違えていた。光が当たった時に見える向きが微妙に異なるはずだった。
別に、何も感じなかった。
説明が終わると同時に、周囲の空気がわずかに揺れた気がした。精霊のざわめき、と後でわかる何かが、身廊の中で静かに動いた。母さんだけが、それに気づいていた。
――――――
一人目が立った。板に手をかざすと、術式が淡く輝き、外周へ向かって光が伸びた。水晶が三つ点いた。
「適性なし」と神父が言った。身廊内が少しざわめいた。
俺は感嘆より先に、どの水晶が光ったかを確認した。他の子が声を漏らしている間も、俺は板から目を離さなかった。
二人目が進んだ。今度は水晶が四つ点いた。光る場所も違った。
俺はその位置を頭の中に置いた。
三人目が終わった。一人目と同じ数だった。だが、光った場所が違った。
俺は少し考えた。八つ全部ではなく一部だけ光った。それはわかった。それぞれの水晶が、別々の何かを判定しているのかもしれない。問題は、何を判定しているのか。
条件が八つあって、すべて満たさなければ資格が得られない仕組みというのは、わかる。ただその条件が何かによって、判定の意味がまるで変わる。同じ剣でも、見る人が違えば価値も変わる——なんか、いくつもの徴を照らし合わせているみたいだな、と頭の端で思った。
四人目と五人目が続いた。俺はその間も位置を追い、頭の中に並べていった。パターンがある気がしたが、まだ何かが足りなかった。
六人目が板に手を置いた瞬間、八つ全部が点いた。
身廊が揺れた。感嘆とも歓声ともつかない声があちこちから上がった。その子は顔を赤らめて席に戻り、親に飛び込んだ。
アリシアが俺の隣でわずかに息を詰めた。
俺はその子が光らせた水晶の位置を、もう一度確かめた。
七人目と八人目が終わった。二人とも適性なし。型通りの訓戒が告げられた。
九人目。アリシアの番が来た。
毅然とした背中で立ち上がり、祭壇へ向かった。マリナ様が小さく息を止めるのがわかった。母さんがそっとその手を握った。
アリシアが板に手をかざした。
術式が一瞬だけ神妙に輝いた。それから光の質が変わった。板が反応したというより、板の外側に何かがいて、それがアリシアに触れた——という感触がした。術式はただその余波を受けていただけのように見えた。暖かく、やわらかく、他の子の時とは根本的に違う光が、一つの水晶へと伸びた。
下側の水晶が一つだけ、光った。温かみのある白さで。
その変化は、ほとんどの者には気づけないほど小さかった。
アリシアがゆっくりと手を離した。うつむいた。神父が訓戒を告げた。声は優しかったが、そこに含まれているものを、アリシアはわかったはずだった。
マリナ様の喉が、声にならないまま動いた。母さんがその手をさらに強く握った。
アリシアは礼をして戻ってきた。毅然としていた。でも、マリナ様の顔を見た瞬間に、顔が崩れた。声を殺して、マリナ様の胸に飛び込んだ。
マリナ様が強く抱きしめた。母さんがアリシアの頭を撫でた。
俺はその光景を見ていた。気づいたら拳を握っていた。
光った水晶の位置を、もう一度確認した。六人目を除いて、誰も光らせていない水晶だった。それだけじゃない。光り方が他の子と違った。暖かかった。あの光は、板が判定している「何か」とは別のものに反応したのではないか。根拠はなかった。でも、そう感じた。
最後、十人目。俺の番が来た。
祭壇を一瞬だけ眺めてから、足早に進んだ。
アリシアがマリナ様に抱かれたまま、顔を上げてこちらを見ていた。その目に、何かを待つような光があった。
その瞬間、身廊の空気が変わった気がした。見えない何かが、静かな室内でざわめいた。母さんの指が、隣のマリナ様の手をわずかに強く握った。
俺は板に力強く手をかざした。
何も起きなかった。
術式が反応しなかった。光が広がる気配すらなかった。しばらく待った。それでも何もなかった。
神父の顔に、かすかな戸惑いが滲んだ。しかしすぐに表情を整え、静かに告げた。
「適性なし。水晶、ゼロ」
身廊が静まり返った。次の瞬間、どよめきが来た。子どもの誰かが笑った。笑いが広がった。
アリシアが体を半ばこちらに向けて、俺を見た。マリナ様の首の後ろに回した腕はそのまま、視線がこちらに向いていた。
神父が周囲を静めた。それから俺に向けて、型通りよりも丁寧な言葉で励ましをかけた。その声には、動揺を押し込んでいる努力が滲んでいた。完全に反応しないというのは、前例がなかったのだろう。
俺はなんでもない顔で母さんの下へ戻った。実際、なんでもなかった。
「さ、帰ろう」と俺は言った。
母さん、マリナ様、アリシアが一瞬顔を見合わせた。
母さんがすぐに笑顔になって「そうね」と言い、俺の頭に手を置いた。その手が触れた瞬間、母さんはわずかに耳元で囁いた。
「……あなた、あの子たちに何を言ったの?」
不安げだったが、どこか愛おしそうでもあった。
「あの子たち?」俺にはその意味が、その時はわからなかった。
――――――
帰り道は行きより静かだった。
同じ固くしまった土の道を逆向きに歩いた。アリシアはずっとうつむいていた。マリナ様が隣に寄り添って歩いていた。アリシアの歩みは一歩一歩が重かった。行きに背筋を伸ばして進んだ同じ道を、まるで別の子が歩いているようだった。
「アリシア」と声をかけた。
返事がなかった。もう一度呼んだ。
「……なに」と小さな声で言った。
「たぶん、判定の儀のことは気にしなくていいと思うぞ」
アリシアが足を止めた。顔を上げた。目が少し赤かった。
「……どういうこと」
「俺にも全部はわからない。でも、あの光り方は他の子と違ったから」
アリシアはしばらく俺を見てから、また歩き始めた。それ以上は聞かなかった。少しだけ、歩みが軽くなった気がした。
根拠はなかった。それでも、言い終えた後に後悔もなかった。
――――――
領主の館の前に着くと、父さんと兄さんとスーリィが待っていた。その隣にガレス様とエリオット様の姿もあった。
スーリィが俺を見るなり走ってきた。
「お兄ちゃん!どうだった?」
「適性なし」と俺は答えた。
スーリィは一拍きょとんとしてから、「そうなの?」と言った。特に悲しそうでも驚いた様子でもなかった。その表情が、妙に落ち着いていた。
父さんに結果を告げた。短く頷いた。それだけだった。
アリシアはガレス様に「一つだけ光りました」と静かに告げた。ガレス様は「そうか」と言った。批判でも慰めでもなく、ただ受け止める声だった。
それぞれの結果を短く共有して、やがて話題が変わった。日常の会話になった。アリシアの表情が少しずつ戻っていくのを、俺は横目で見ていた。
――――――
夜になった。
自室の天井を見上げた。梁の木目が、いつもと同じ形で上にあった。外から虫の声がした。風が遠くの木を揺らした。
今日の判定板のことを、もう一度なぞった。
光った水晶の位置。それぞれの組み合わせ。六人目だけが全部。アリシアは一つ、しかも他の子と違う光り方で。俺はゼロ。
八つの水晶が八つの何かをそれぞれ判定しているとするなら、何を。採点基準が八つあって、そのどれに合致するかで光る水晶が変わる。教義と対応しているとすれば、どの教義に「賛同できる」かで結果が変わる。なるほど、と思った。貴族の政略結婚のような仕組みで、何に「はい」と言える人間かを見ている。俺の場合は全部に「いいえ」だったか、それとも板そのものが俺を弾いたのか。
アリシアが光らせたのは、六人目だけが光らせた水晶と同じ位置だった。だが光り方が板の外から来ていた。精霊がアリシアに触れた。そういうことではないか。
考えの糸が一本に束まりかけた、その瞬間だった。
頭の中に、刺すような痛みが走った。
「……っ」
目を閉じた。頭を手で押さえた。痛みは鋭く短かった。何かに弾かれたような感覚だった。
少し待つと、痛みは引いた。
「……何だったんだ?」
しばらく、その感触を思い出そうとした。何かに弾かれた——という感覚だけは残っていた。でも、それ以上は何も出てこなかった。
周囲を見渡した。部屋は静かだった。梁の影が天井にあった。
思考の続きに戻ろうとした。でも、さっきまでつながりかけていた線は、もう見えなかった。ただ、何かがある、という感覚だけが残っていた。
もう少しすれば、見える気がした。まだ、見えなかった。
布団に入って目を閉じた。しばらくして、足元の方から何かがいる気がした。起き上がって見た。何もなかった。暗くて、静かだった。気のせいかもしれなかった。でも、気のせいではない気もした。もう一度目を閉じた。今度は眠れた。夢を見た気がしたが、朝になっても何も覚えていなかった。
本日も複数話の予定で、次話は11:00投稿予定です。




