第4話 才能の片鱗
(ヴァルト視点)
魔王城の朝の食卓は、問答の場だ。
父上のザハルは上座に座り、料理に手をつける前に必ず一度、兄上たちに視線を巡らせた。「調子はどうだ?」と聞いた。毎朝、欠かさず。
俺はそれが質問ではないとわかっていた。観測だった。答えの中身から、誰が何を持っていて、何を隠していて、今日の盤面がどうなっているかを読んでいた。父上はそういう人だった。魔王というのは、たぶんそういうことだった。
レグナ兄上は昨日の訓練の成果を述べた。声は太く大きく、数字は明確だった。次期魔王の最有力として、それに恥じない態度と言葉を常に選んでいた。
ラグナス兄上は最近の戦術研究について話した。笑いながら。でも内容は空疎ではなかった。
ヴェルザリア姉上は「お父様が懸念されている点があれば、後ほど個別に伺います」と答えた。情報を要求する代わりに、相手が出したいものを出させる形を取った。
ラザト兄上は魔法の訓練の内容を短く述べ、それでいて、ラグナス兄上の言葉に必要な補足だけは添えていた。
ガルディス兄上は今日も食卓には出なかった。
俺の番になった。
「自室前の廊下への松明の配置を変えました。等間隔から段階配置にしたところ、衛兵の巡回ルートと重なる無駄が消え、照明の効率が七割向上しています」
言いながら、それが「成果の報告」として正しい形をしているかを確認した。結果がある。数字がある。問題は起きていない。正確だ。
父上はひとつだけ俺を見た。それから料理に目を落とした。
ラグナス兄上が短く笑った。何かを言いかけて、やめた。
俺にはその笑い方の意味が、まだよくわからなかった。
――――――
食卓を出てから、俺は西棟の奥へ向かった。
庭園の外れ、石畳が途切れて土と草の境目になる場所に、数週間前に見つけた一角があった。石垣が低く崩れかけていて、背の高い木がそれを隠していた。城壁の影になるせいで、昼でも光が薄い。人が来ない。それだけで十分だった。
手のひらを上に向けた。
炎が生まれた。昨日より形が締まっていた。深い緋色の球が、指の上に静止したまま揺れなかった。朝の冷えた空気の中で、その色だけが鮮やかに浮いていた。呼吸に合わせて、炎の輪郭を縦に伸ばした。楕円にした。元に戻した。次に指を三本だけ立てて、三つに分けた。それぞれが同じ大きさを保ったまま、独立して静止した。
問題は感情が動いたときだった。試しに昨日のラグナス兄上の視線を思い出した。三つの炎のうち、右端が微かにぶれた。意識を向けると元に戻った。そのまま呼吸を十数えた。崩れなかった。
今日は安定していた。
炎を消した。手のひらを見た。何も残っていなかった。当たり前だった。
――――――
城に戻る途中で、教育係のクレイドと行き合った。
「ヴァルト様、こちらにおいででしたか」
咎めているのか確認しているのか、声の温度だけでは判断しにくかった。「西棟の奥は城外に近く、お一人での立ち入りはご遠慮ください」と言いながらも、特に引き留めようとはしなかった。俺が「わかった」と答えると、それで終わった。
クレイドと並んで中央棟へ戻る廊下を歩いた。途中、北側の渡り廊下に差しかかったとき、足音と物音と声が重なって聞こえてきた。
「あそこは?」
「兵站区画でございます。今朝は魔石の入庫がありまして」
魔石。魔素が長い時間をかけて結晶化したもので、体内に取り込むと魔力が回復する。それは知っていた。しかし、それがどう管理されているかは見たことがなかった。
「見ていいか?」
クレイドは一拍置いた。
「教育の一環と捉えれば、問題はないかと」
俺は先に歩き出した。
渡り廊下を進むにつれ、音が増えた。足音が重なり、木箱を下ろす音が石壁に跳ね返り、誰かが数字を読み上げる声が途切れ途切れに届いた。匂いも変わった。燭台の煙の奥に、乾いた埃と、何か金属に近いものが混じっていた。
――――――
兵站区画は、廊下の幅が急に広くなるところから始まった。
石壁に沿って棚が並んでいた。木箱、布袋、鉄の容器。奥には魔石の籠が積まれていて、表面が鈍く紫がかった光を放っていた。下級役人が数人、帳簿を手に動き回り、荷運びの者がすれ違いに言葉を交わしていた。
クレイドが横に立って、説明を始めた。
「食料は我々の身体を維持し、魔石は魔力を補充します。どちらが欠けても戦力が落ちます。魔界では、資源の流れがそのまま戦力に直結するのです。管理できなければ、戦うことができないのです」
食料と魔石。どちらが欠けてもこの世界――魔界では戦えない。それだけのことだった。
俺はそれを聞きながら、棚の端に目を向けた。
出庫記録が貼り付けてある。日付、品目、数量。並んでいるだけなら何でもない。ただ、少し前の記録と見比べると、おかしかった。
昨日と今日で、魔石の出庫量が倍近く増えていた。
城の人員は変わっていない。大規模な訓練の話も聞いていない。なぜ倍になる?
俺は少し考えた。
記録の間隔を見ると、増え方が不規則だった。訓練量に比例しているわけでも、人員の増減と連動しているわけでもない。ただ、一つのパターンがあった。出庫量が多い日は、必ず翌日の在庫記録に戻りがあった。
……このやり方だと、必ず余る。だから誤魔化せる。そういうことか。
不正の構造が、まるで知っていたかのように浮かんだ。浮かんだ、ということだけを確認した。どこで覚えたかは問題ではない。問題は、この帳簿だった。
俺は立ち止まって、近くにいた役人を見た。
「この記録について聞きたい。昨日と今日で魔石の出庫量が倍違う。」
役人は一度俺を見て、次にクレイドを見た。それから「はあ」と言った。子供が話しかけてきたときの大人の声だった。
「誤差の範囲でございまして」
「出庫量の差が誤差なら、在庫記録と整合するはずだ。在庫記録を見せてもらえるか?」
役人の手が、帳簿の端を握った。指先がわずかに白くなった。
「……別区画で管理しておりまして」
「別区画でも記録はある。持ってこれるか?」
「それは上長の許可が必要でして」
「この帳簿はあなたが管理しているのか?」
「そうですが」
「なら今手元にある記録だけで確認できる。この四日分の出庫量を合計すれば、在庫の減り方と一致するか」
役人は帳簿を開いた。めくった。また別のページを開いた。数字を目で追っているようで、実際には別のことを考えているのが目の動きでわかった。着地点を探していた。どの言い訳を選ぶか。どこで諦めるか。俺はそれを黙って測っていた。
「……計算に時間が必要でして」
「構わない。待つ」
沈黙が落ちた。廊下の奥で誰かが荷物を下ろす音がした。それだけが聞こえた。
役人は顔を上げた。ゆっくりと、俺を見た。子供に追い詰められているという屈辱が、その顔に滲んでいた。
「……子供が口を出すものではございません。帳簿の管理は私どもの職務でございます」
俺は少し考えた。
「怒る体力があるなら、計算に回した方がいい。君の感情は、欠損した魔石を補填してはくれないだろう」
役人の顔から、何かが抜けた。
役人はもう一度だけページをめくり、そこで手が止まった。帳簿を閉じた。閉じた手が、動かなくなった。
俺はその瞬間に、答えを得た。聞く必要はもうなかった。
「別に怒っていない。無駄だから確認した。それだけだ」
役人は何も言わなかった。視線が床に落ちていた。
――――――
廊下の奥から足音が聞こえてきた。
ラグナス兄上だった。その後ろにラザト兄上がいた。少し遅れて、レグナ兄上も来た。騒ぎを聞きつけたのか、通りがかったのか、それはわからなかった。
「何事だ!」とレグナ兄上が言った。
その威圧感に、助けを求めるように、一瞬だけラグナス兄上の方を見て、役人が口を開こうとした。
ラグナス兄上が片手でそれを制した。
「帳簿を調べていたのか?」ラグナス兄上は、役人から目を逸らさないまま俺に問いかけてきた。
「出庫量と在庫記録が合っていなかった。だから確認しただけ」
ラグナス兄上はしばらく俺を見ていた。笑顔だった。でも目の奥で、何かが静かに動いていた。品定めをするときの目だった。天秤にかけていた。
「こいつは使えるか。それとも、先に潰すか」。そういう計算をしていた。俺にはなんとなく、そう見えた。
レグナ兄上が「ふむ」と頷いた。声に、純粋な興味があった。
「五歳で帳簿の照合か」
ラザト兄上は何も言わなかった。ただ俺を横目で見て、また前を向いた。その顔に、怒気はなかった。嫉妬とも少し違った。ただ、自分の知っている世界の外にあるものを見たときの、静かな戸惑いのような表情だった。
ラグナス兄上が役人の方を向いた。
「後で詳しく説明しろ」
役人が深く頭を下げた。
兄上たちが去りかけたとき、ラグナス兄上が立ち止まった。振り返りもせず、笑ったままの声で言った。
「ヴァルト、今度また教えてくれ。私も勉強になるから」
それだけ言って、先に歩いていった。
去り際のほんの一瞬だけ、ラグナス兄上の笑みが硬直するのを、俺は見逃さなかった。笑い続けていた。でも、その一瞬だけ、何かが止まっていた。
廊下にその声の余韻だけが残った。温かい言い方だった。だからこそ、俺は体の奥が少し固くなるのを感じた。
――――――
夜になった。
手のひらを開いて、炎を出した。朝より少し小さく、でも安定していた。
昼間のことを、もう一度なぞった。
帳簿の数字。役人の手の止まり方。ラグナス兄上の去り際の声。俺がやったことは、ただ合っていない数字を指摘しただけだ。無駄があったから言った。それだけのことだ。
なのに、あの場の空気は何かが起きたような顔をしていた。
全員が、俺を別の何かとして見た。
当たり前のことを言っただけなのに、なぜあの役人はあんなに汗をかいていたのか。なぜ帳簿を持った手が震えていたのか。それが理解できないわけではなかった。ただ、「なぜそんなことをするのか」が、俺には本当にわからなかった。無駄だから指摘した。それ以上でも以下でもない。なのになぜ、あんなに醜く歪んだ顔をしたのか。
ラグナス兄上は俺を天秤にかけていた。ラザト兄上は俺を自分の地図の外の何かとして見ていた。レグナ兄上だけが純粋に面白がっていた、かもしれない。
炎が揺れた。俺が揺らしたわけではなかった。
城の夜は静かだった。月の光が石畳に落ちて、冷たく光っていた。風も届かなかった。城の中は空気が動かなかった。
誰かに話せる気がしなかった。ヴェルザリア姉上はきっと「政治の問題」として解釈する。ガルディス兄上なら聞いてくれるが、答えは「そういうものだよ」で終わる気がした。それが悪いとは思わなかった。ただ、それで俺が納得できるかどうかは別の話だった。
この感覚は、どこにも置き場がなかった。
炎を見た。完璧な球。完璧な静止。ここには無駄がひとつもなかった。
……なのになぜだろうな。誰とも共有できない正解というのは、これほどまでに熱を奪うものなのか。
炎を消した。
「……やはり冷えるか」
声が、動かない空気に消えた。
布団に入った。目を閉じた。
何かを探している感じがした。答えでも、意味でも、たぶんない。もっと単純な何か。ただそこにいるだけで、余計な説明をしなくていい、そういう誰か。
その顔は、まだどこにもなかった。
次話は明日の7:00投稿予定です。




