第3話 空白の閃光
(リュート視点)
毎朝の稽古には、身が入らなかった。
やれることはやった。言われた通りに木剣を振る。重心を落とす。目線を前に向ける。続けていれば形にはなる。それはわかっていた。ただ、形になることと、やりたいことの間には、小さいながら確かな距離があって、俺はいつもそこに引っかかっていた。
父さんは怒らない人だが、ある朝こんなことを言った。
「リュート、お前は才がある。だが、木剣を握る理由が空っぽだ」
理由。稽古に理由がいるのか、と俺は思った。口には出さなかったが。
その日も稽古を無難に終わらせて、木剣を片付けていた。そこへ声がかかった。
庭の入り口に、アリシアが立っていた。髪に木の葉を一枚引っかけたまま、靴の先には泥がついている。すでにどこかへ行ってきた後の格好だった。
「丘に変な花が咲いてるの。見に行こ」
「……稽古が終わったばかりだ」
「だからちょうどいいでしょ」
「空いてるのと行くのは別の話だ」
「同じじゃない?」
「全然違う」
「じゃあ一緒に来て、違いを教えてよ」
どういう理論かさっぱりわからなかったが、なぜか俺はいつも最終的についていくことになった。後から振り返ると、それが一番不思議なことだったかもしれない。
アリシア・ブランデル。領主ガレスの長女で、俺と同い年だ。物心つく前から顔を合わせていた。明るく、活発で、「行く」と決めたら誰にも止められなかった。そこまではいい。問題は、俺が「行かない」と言っても止まらないことだった。
引っ張っられる、というより放っておけない感じがした。あいつはいつも、俺が一番入りたくない藪の中まで平気で入っていった。止めなければ、と思った。止めてもどうせ聞かないとわかっていても、黙っているよりはマシな気がして、気がついたら後ろをついて歩いていた。
丘の花はたしかに奇妙な形をしていた。アリシアは「ほら見て」と俺の袖を引きながら何度も指さした。しゃがんで観察しているうちに、悪い気はしなくなっていた。
帰り道、アリシアが言った。
「リュートって、怒らないよね」
「怒るときは怒る」
「でも、あんまり」
「……そうかもな」
「それ、いいと思う」
どう返せばいいかわからなくて、俺は黙って歩いた。あいつの言葉は真っ直ぐすぎて、どこに置いたらいいかいつも困った。
それでも、どこか懐かしいものが、あいつにはあった。何なのかは、うまく説明できなかった。ただ、あの明るさは、俺が自分では持っていないものだと、どこかで知っていた。
――――――
それから十日ほど経った、秋の午後のことだった。
稽古を義務的に終わらせて、居間で本を開いていた。読んでいる、というより眺めていた。窓から斜めに差し込む日差しがページの端を白く光らせていて、スーリィは昼寝中で、家の中はしんとしていた。眠くなるのにちょうどいい午後だった。
窓際で足音がした。
「リュート、いる?」アリシアだった。
「いる」
「森にすごいきのこがあるって聞いたんだ。見に行こ」
俺は本から目を上げた。
「……きのこ?」
「そう。薬草師の子どもが見たって。変な形らしくて」
「父さんに聞け」
「エルドさんはちゃんと怒るから嫌。リュートなら怒らないでしょ」
「……それは否定できないけど」
そうやってなし崩しに、俺たちは領地の外れの森に向かうことになった。
境界の石壁を越えた先、大人たちが「あまり入るな」と言っている側だった。アリシアはその「あまり」の部分を都合よく解釈した。父が以前、この入り口付近は害獣は出ないと言っていた範囲だ、と告げると、「じゃあ大丈夫」と即座に返ってきた。俺がそれを否定できなかったのは、半分そう思っていたからだった。
断る理由を筋道立てて考えようとしたが、肩を落として立ちあがった。
――――――
午後の森は、明るかった。
葉の隙間から差し込む光が斜めに走って、細い影が地面に何本も伸びていた。踏み込むたびに乾いた草がかさりと鳴った。風がわずかにあって、木の葉が揺れるたびに光が細かく散った。秋になりかけた葉の匂いと、湿った腐葉土の匂い。奥に進むほどひんやりして、肺の奥まで冷えていく感じがした。
木々の間から鳥の声がいくつか聞こえたが、どれも遠かった。
「あった、これ」とアリシアが足を止めた。
太い木の根元に、奇妙な形のきのこが群れていた。傘が重なり合うように生えていて、色は薄い灰色だった。見たことのない形だった。
「これ食べられるかな」
「食べるな。絶対に食べるな」
「なんで知ってるの」
「知らないから食べるなと言っている」
「なるほどー」
なるほど、じゃない。
俺はいつの間にか観察に没頭していた。なぜこんな形をしているのか。なぜこの木の根元だけに密集しているのか。傘の裏の構造を覗き込んでいると、アリシアがまたどこかへ歩き出した。
「ちょっと、待て」
「もっと奥にもあったんだって。こっちこっち」
そうやってじりじりと、俺たちは森の内側に引き込まれていった。
最初のうちはまだ光が届いていた。でも少し経つと、木が密になって空が見えなくなった。地面の影が濃くなり、頭上を枝の絡まりが覆った。
そのとき、匂いが変わった。
土と葉の匂いではなかった。もっとざらついた、重い匂い。湿り気の中に、何か鋭いものが混じっていた。石壁の木の下で感じた気配とは根本的に違った。あれが温かく柔らかいとすれば、これは冷たく、鋭く、何かを削るような感触だった。
「……アリシア」
声が低くなっていた。振り返ると、アリシアが木の陰で立ち止まっていた。
「なんか、変な感じがする」とアリシアは言った。声がいつもより静かだった。
鳥の声が途切れていた。さっきまであんなに聞こえていたのに、今は何も聞こえない。代わりに、何かが、いた。見えない。でも、いる。目で見たわけでも、音で聞いたわけでもない。それなのに、俺は体ごとそれを感じていた。
「逃げるぞ」
アリシアの手を掴んで走り出した。来た方向へ戻ろうとしたが、どちらから来たのかもう定かではなかった。光の差す方向を目印に走ったが、木が密すぎて方角が定まらなかった。
後ろで、何かが動いた。
足が速くなった。アリシアが転びそうになって、俺は手を引いた。枝が頬を掠めた。地面を踏む音が追いかけてきた。一つではなかった。
地面が段差になっているところで、大きな木の根元が目に入った。根が張り出して影を作っていた。俺はアリシアの手を引いてそこに滑り込んだ。
「声を出すな」とささやいた。アリシアが頷く。二人とも息を殺した。
気配が、少し遠ざかった。
どのくらいそうしていたかはわからなかった。気づくと、空が橙に変わり始めていた。
日が傾き始めていた。
木々の隙間から見える空の色が、橙から濃い紫に変わっていく。俺たちは動かなかった。
「動かない方がいい。下手に動き回ると体力を消耗する。見つかりやすくもなる。最悪に悪手だ。捜索が来るなら、一か所にいた方が合流できる」
声に出してみると、自分でも少し落ち着いた。
アリシアは頷いた。いつものあいつとは違って、静かだった。
「怖い?」
「……怖い。でもリュートがいるから、大丈夫……」アリシアの声は震えていた。
返す言葉が出なかった。俺は前を向いたまま、周囲の気配を探り続けた。
時間が経つにつれ、森の暗さが増した。昼間の甘い匂いが消えて、もっと湿った夜の匂いに変わっていく。遠くで何かが枝を踏む音がした。一度。また一度。
やがて、草の向こうに光る目が見えた。
一つではなかった。
目が赤く発光していて、額に角が生えていた。角には紫の紋様が浮かんでいて、それが森の暗がりの中で鈍く光っていた。大きさは普通の兎の倍はあった。複数の影が、木々の間からこちらを囲むように動いていた。
俺は地面の枝を拾った。
投げた。一つ目が木に当たって音が鳴った。魔物がぴくりと動いた。でも退かなかった。石を拾って投げた。それも効かなかった。じりじりと、距離が詰まっていった。
後ろで、アリシアの息を吸う音がした。
声を殺して泣いていた。泣き声を出すまいとして、震えながら堪えていた。あれほど元気で、どこへでも引きずっていくあいつが、今は小さく縮まっていた。
その姿を見た瞬間、俺の中で何かが変わった。
理由はなかった。根拠もなかった。ただ、あいつをこのままにしていい理由は、この世界のどこにもないと迫る何かが、説明のつかない力で背中を押してきた。どこから来たのかわからない。わからないが、止められなかった。
俺は枝を握り直した。
一角を突破しようとした。横から回り込む形で踏み出したとき、アリシアがうずくまって動けなくなっているのに気づいた。体が竦んでいた。呼んでも揺すっても、足が動かなかった。
俺はアリシアの前に体を割り込ませた。
突進が来た。躱した。でも肩に何かが掠めた。熱さが先に来て、次に痛さが来た。地面に転がった。立ち上がろうとしたとき、また別の魔物が助走に入っていた。
来る、と思った。
その瞬間、横から光が飛んできた。
松明だった。地面に転がって炎が散り、魔物が一瞬怯んだ。複数の足音が木の間から走ってきた。父さんの声がした。ガレス様の声もした。
捜索に来たのだ、と遅れて理解した。
松明の炎が近づいてきた。揺れながら、橙色の光が木々の間を照らし出す。影がめまぐるしく動いた。
その光を見た瞬間。
俺の中で、何かが弾けた。
光だった。でも、松明の橙色じゃなかった。炎の赤でも、夕暮れの金でも、夜明けの白でもない。そのどれとも違う、強くて、白くて、正面から押し寄せてくるような、圧倒的な光。胸の奥の、閉ざされた扉を内側から引き裂きこじ開けるような感触だった。
瞼の裏まで染まった。
体の芯から何かが湧き上がってきた。熱い。手のひらが、胸の真ん中が、燃えるような感触で満ちていった。痛いわけじゃない。でも、止められない。川の堰が決壊するような感じで、それは外へ出ようとしていた。
手を目いっぱい開き、腕を限界まで伸ばし、掴んだ。でも、その手の中には、冷たい空気しかなかった。
声が出た。
「――嫌だ」
自分の声だとわかった。でも、自分で出した感覚がなかった。
「もう、これ以上は……!」
何を言っているのか、自分でもわからなかった。
次の瞬間、世界が白くなった。
音が消えた。衝撃もなかった。ただ、視界の全てが、一瞬で塗り替えられた。白い。白い。何もかもが白い。森の音が全部消えて、その後にゆっくりと暗くなって、俺の意識はそこで終わった。
世界に色が戻った後も、その場にいた者は、魔物でさえ、立ち尽くしていた。森の中はしばらくの間、静寂に包まれていた。
――――――
目が覚めたのは、数日後だった。
自分の部屋の天井が見えた。梁の木目が、いつも通りあった。窓から光が入っていて、昼ごろだとわかった。
体が重かった。頭が鈍く痛んだ。
母さんが隣にいた。俺の顔を見て、泣きそうな顔で笑った。
「よかった。目が覚めたのね」
「……俺、何を」
「高熱が続いてたの。三日間」
三日間。
俺は天井を見たまま、しばらく黙っていた。
「アリシアは?」
「無事よ。あなたのおかげで怪我もない。今日も見舞いに来たがってたけど、まだ休ませてって断ったの」
無事、という言葉を聞いて、何かが緩んだ。肩の力が抜けて、初めて体が布団に沈む感じがした。
あの光のことを思い出そうとした。
あったはずだ。あの感覚は確かにあった。熱くて、白くて、何かが弾けるような。
でも、何もなかった。
記憶の中に、ぽっかりと白い穴が空いていた。光の瞬間だけが、きれいに抜け落ちていた。その手前まではあった。足が竦んで、アリシアの前に体を割り込ませて、肩に熱さが走ったこともあった。目が覚めてからのこともあった。でも、あの瞬間だけがなかった。
真っ白な空白だった。
何かがあったことは、体が覚えていた。腕の筋肉が引きつれるような感覚と、胸の奥にわずかに残る熱さ。でも何だったのかを、頭が教えてくれなかった。
「……そっか」と俺は言った。
それ以上は何も言わなかった。
ただ、一つだけはっきりしていることがあった。
次にアリシアが危ない目に遭ったとき、俺はまた動けなければいけない。それだけが、理由も根拠もなく、確信のように残っていた。
あの震えを、もう一度見たくなかった。あの涙が自分の無力さの結果だという感覚が、喉の奥にまだ残っていた。
強くならなければいけない、と思った。守れるくらいには。
できることをやる。それだけだ、と俺は思った。理由をこねくり回しても仕方なかった。
翌日から、俺は稽古に出るようになった。言われる前に、自分から。
父さんは何も言わなかった。ただ、木剣を渡しながら、いつもより少しだけ長く俺の顔を見た。
次話は21:00投稿予定です。




