第2話 火と夜のあいだで
(ヴァルト視点)
最初の記憶は、炎だった。
天井が高く、壁が黒光りする石でできた部屋の中で、俺は床に座って手のひらを見ていた。
手のひらの中心が、ほんのりと赤い。熱くはなかった。ただ光っていた。揺れてもいなかった。炎というより、何か濃いものが静かに息をしている、という感じがした。
それが何なのか、そのころの俺にはわからなかった。ただ、何かを出したくて、手を伸ばしたら出てきた。それだけのことだった。
怖くはなかった。むしろ、ずっとそこにあったものがやっと外に出た、という感じがした。
「ヴァルト。それを消しなさい」
背後から声がした。母上の声だ。リヴィアナ。魔王妃。美しくて、いつも少し遠くを見ているような目をしている人。俺が手を閉じると、光はすっと消えた。
「もう少し早く消せるようになりなさい。人に見られるにはまだ早いわ」
「どうしてですか?」と俺は聞いた。
母上は少し間を置いてから答えた。
「あなたはまだ五歳なの。それを出せることを知られると、困る魔人がいるのよ」
困る魔人。それが誰なのか、そのころはわからなかった。ただ、母上の声に普段とは違う緊張があって、俺は余計なことを聞くのをやめた。
「わかりました」
「いい子ね」
母上の手が頭に触れた。温かかった。でも、その温かさの奥に何か別のものがある、と俺は感じていた。愛情ではあるが、それだけではない。守ろうとしている。ただし、守ることと可愛がることは、母上の中では別の場所に、ただ静かにあるものだとわかっていた。
ただし、守ることと可愛がることは、この人の中で別の引き出しに入っているのだと、うまく言葉にはできないまま、なんとなくわかっていた。
――――――
その日の午後、俺はヴェルザリア姉上の部屋を訪ねた。
廊下は静かだった。外から光がほとんど入らない石の通路を歩くと、自分の足音だけが響いた。湿った石の匂いと、かすかな燭台の煙が混ざった空気。ここに長く住んでいると慣れるのかもしれないが、俺にはまだ少し重たい感じがした。
姉上の部屋は、城の中では珍しく窓が大きかった。分厚いカーテンの隙間から午後の光が斜めに差し込んで、床に長い四角い影を作っていた。
姉上は本が好きで、部屋に入るといつも何か読んでいた。今日も分厚い背表紙の本を膝の上に置いていて、俺が入ってきても顔を上げるのに少し時間がかかった。
「どうしたの?」
「魔力のことを聞きたい」と俺は言った。「あと、見てほしいものがある」
ヴェルザリア姉上は本を閉じた。それだけで、ちゃんと向き合う気になったとわかった。ヴェルザリア姉上はそういう人だ。いつも面倒くさそうにしているが、大事な話には必ず向き合った。
「何を見せたいの?」
俺は部屋の中央に立って、手のひらを上に向けた。
少し集中した。体の奥にある何かを、そっと外へ向けて押し出すような感覚。それが出てきた。
手のひらの上に、炎が生まれた。ただの炎ではなかった。揺れない。風もないのに形が崩れない。完全な球の形を保ったまま、手のひらの少し上に浮いていた。橙でも赤でもない、深い緋色をしていた。
それから俺は指を広げた。
球が、五つに分かれた。
それぞれが指の上でひとつずつ、同じ大きさで、同じ間隔で、静止した。五つの炎がまったく同じ高さに並んで、揺れもせず、消えもせず、ただそこにあった。
ヴェルザリア姉上が、本を持ったまま動かなくなった。
「……いつからこんなことができるの?」
「最初からかな。でも最近、形が安定してきた」
「誰かに教わった?」
「教わってない。やりたいと思ったら、そうなった」
ヴェルザリア姉上はしばらく俺の手のひらを見ていた。目が、いつもと少し違う色をしていた。
俺が手を閉じると、五つの炎は同時に消えた。
「ヴァルト、それを今まで誰かに見せたことは?」
「母上に最初に見られた。でも消せって言われた」
「他には?」
「誰にも見せてない」
ヴェルザリア姉上は少し間を置いた。
「よかった。……ねえ、今日ここに来るとき、廊下で誰かとすれ違わなかった?」
俺は首を振りかけて、少し考えた。
「……ラグナス兄上が、廊下の向こうにいた気がした」
ヴェルザリア姉上の表情がわずかに変わった。何かを抑えるような、でも顔には出さないような、そういう変わり方だった。
「そう」とだけ言って、ヴェルザリア姉上はまた俺の方を見た。
――――――
あの廊下のことを、俺は少し前から気になっていた。
ヴェルザリア姉上の部屋へ向かう途中、通路の折れ曲がった先に、影があった。人が立っているような影だった。俺が近づく前に、それは消えた。
足音は聞こえなかった。でも、確かに誰かがいた。
ラグナス兄上は、俺に対してだけ目つきが違う。何かを測るような、品定めするような目だ。よく笑う人だが、俺を見るときだけその笑いが少し違う質になる。子供の俺には、それが何を意味するのか正確にはわからなかった。ただ、その視線を受けると、体が少し固くなった。
食事の場でのラザト兄上への言葉を思い出した。
笑いながら削る。それがあの人のやり方だ。俺にもいつかあれが向く。なんとなく、そう思っていた。
――――――
「魔力って、自分で動かせるものなの? それとも勝手に動くものなの?」
ヴェルザリア姉上は少し考えてから答えた。
「両方ね。魔力は体の中に最初からある。それが勝手に動くのは、感情が強いとき。自分で動かすのは、訓練して初めてできるようになる。あなたはどっちをやってるの」
「なんとなく出してる。でも最近は、こうしたいと思ったら、そうなる感じがする」
「なんとなく出して、思った通りの形になる」とヴェルザリア姉上は繰り返した。
「五つに分けて、同じ大きさで、同じ高さに並べた。あれは、意識してやったの?」
「うん」
「どのくらいかかった?」
「少し集中したら、すぐ」
ヴェルザリア姉上はまた黙った。今度は少し長かった。窓からの光が斜めに移動して、床の影の形が変わった。
「ヴァルト、一つだけ覚えておきなさい。魔力を扱う力は、ここでは強さと直結するわ。それはあなたにとって武器になるけど、同時に的にもなる。わかる?」
「的?」
「狙われる、ということよ」
俺はまた、廊下の影のことを思い出した。黙って頷いた。
「今はまだ子供だから、隠しておく方がいい。でも練習は続けなさい。力は使わないと育たないし、育てないと守れないから」
「姉上は、俺が強くなる方がいいの?」
「弱いままでいてほしい家族なんていないわ」とヴェルザリア姉上は言った。それから少しだけ、柔らかい顔になった。「あなたはいい子だから、強くなっても変わらないでいてほしいとは思う」
「変わらないって、どういうこと?」
「今のあなたのまま、ということよ」
その意味が、そのころの俺にはよくわからなかった。でも何となく、大事なことを言われた気がした。
――――――
ヴェルザリア姉上の部屋を出て、ガルディス兄上の部屋へ向かった。
ガルディス兄上は体が弱くて、自分の部屋で過ごすことが多い。それでも退屈そうな顔はしない。本を読んでいるか、窓の外をぼんやり見ているか、俺が来ると少し嬉しそうな顔をした。
扉を叩くと、「入っていいよ」という声が返ってきた。
部屋はヴェルザリア姉上の部屋より小さく、窓も一つしかなかった。ガルディス兄上は寝台の上に半分横になって、膝に毛布をかけていた。今日は体の調子が悪いらしい。それでも顔色は悪くなかった。
「ヴァルト、珍しいね。姉上の部屋の帰り?」
「うん」
「何の話をしたんだい?」
「魔力のこと」と俺は言った。それから少し考えて、「あと、姉上に魔法を見せた」と付け加えた。
ガルディス兄上が少し目を細めた。
「見せたの。どんなのを?」
俺は部屋の中央に立って、また手のひらを上に向けた。体の奥から押し出すような感覚。炎が生まれて、五つに分かれた。ガルディス兄上の部屋の灯りは少なくて、浮かんだ炎が部屋の壁に赤い影を作った。
ガルディス兄上はしばらく黙って見ていた。
「……すごいな」
普通に言った。驚いた様子はなかった。ただ、静かに感心しているような声だった。
「母上には内緒にしてて」と俺は言った。
「うん。言わない」
俺は炎を消した。部屋の影が元に戻った。
「ラグナス兄上が、廊下で見てたかもしれない」と俺は言った。
ガルディス兄上の顔から、少し柔らかさが消えた。
「……どのくらい見てたと思う?」
「わからない。気がついたら影がなかった」
兄上はしばらく考えるような顔をしてから、「そっか」とだけ言った。それ以上は言わなかった。
「ガルディス兄上は、ラグナス兄上が嫌いなの?」
「嫌いとは違うかな。ただ、面倒な人だ、とは思ってる」
「なんで面倒なの?」
「人が持っているものを、自分が持っていないと思うと、機嫌が悪くなるから」
俺はそれを聞いて、廊下の影のことをもう一度考えた。あの視線の意味が、少しだけわかったような気がした。
「消しておきなよ。まだ早い。でも練習は続けていい。俺は黙ってるから」
「ありがとう」
「いいよ」
ガルディス兄上はすぐに窓の外を見た。外は曇っていて、ほとんど光が入っていなかった。それでもガルディス兄上は、何かを見るような目でそちらを向いていた。いい景色だな、とでも言いたそうな、穏やかな顔で。
俺はしばらく部屋に居て、それから出た。
廊下に戻ると、石の冷気がすぐに肌に貼り付いた。
振り返らなかった。でも、廊下の向こうの暗がりに、何かがいる気がした。視線、というより、気配だ。見られている、というより、数えられているような感じ。何かを記録されているような。
足を止めずに歩き続けた。
子供だから、まだ警戒するほどではないと思われている。
それが本当ならいい。
でも、本当かどうかは、もうわからなかった。
――――――
夜になると、魔王城の廊下は静かになった。
使用人の姿もなくなり、たまにすれ違う衛兵も俺には視線を向けなかった。子供だからだ。まだ警戒するほどではないと思われていた。それがなぜかむず痒かった。
俺は自分の部屋の窓辺に座って、外を見ていた。
魔界の夜は暗い。空に月はあるが、その光は青白くて冷たかった。人界の月がどんな色をしているか、そのころの俺は知らなかった。ただ、この月明かりの下では、外の石畳が鈍く光って、城の影が地面に黒く落ちていた。
風は届かない。窓を開けていても、城の中は空気が動かない。石の壁が熱も冷えも吸い込んで、どこへ行っても同じ温度のような感じがした。
「……冷えるか」
自分の声が、動かない空気に吸い込まれて消えた。
手のひらを開いた。
五つの炎を出した。昼よりも少し安定していた。それぞれが同じ距離を保ったまま、ゆっくりと円を描くように回り始めた。俺が少し意識を向けると、動きが止まる。別の方向に向けると、それに従う。体の中の何かと、外にある炎とが、細い糸でつながっているような感覚だった。
それを見ていると、何かを思い出しそうになった。
何かを、という感じだ。具体的には何も出てこない。ただ、光を見るたびに、胸の奥が少しだけ何かを探している気がした。
炎じゃない。
もっと違う光のことを、俺は探している気がした。これは自分の中から出る光だ。押し出す、燃やす、消費する、そういう種類の光だ。でも俺が探しているのは、もっと外から来るような、向こうから差し込むような、もっと澄んだ何かだった。名前がない。形もない。ただ、確かにそれがある場所が、どこかにある気がした。
何を探しているのか、わからなかった。
炎を消した。窓の外の暗い空を見た。
誰かのことを考えていた気がした。でも顔がない。名前もない。ただ、確かに誰かがいた感じだけが残った。
今日会った人たちではなかった。城の中の誰でもなかった。
「……誰だろう」と小声で言ってみた。
誰も答えない。
俺は窓を閉めて、布団にもぐった。
石の壁が、外の冷気を遮っていた。布団の中は温かかった。それでも、どこかに隙間があるような気がして、なかなか体が緩まなかった。
寝つくのに少し時間がかかった。理由はわからなかった。ただ、何かが足りないような、何かを待っているような感じが、胸の底にあった。
それが何なのかを知るのは、まだずっと先の話だった。
次話は19:00投稿予定です。




