第1話 土と光のあいだで
(リュート視点)
最初の記憶は、土の匂いだった。
雨上がりの、湿った黒土。草の根が絡まって、踏むたびにやわらかく沈む、あの感触。目を開けると空があって、雲があって、木の葉の隙間から光が差し込んでいた。
それだけのことなのに、なぜか泣きそうになった。
理由はわからなかった。ただ、その光を見ていると、胸の奥の何かがじわりと緩んで、消えていくような感覚があった。何かを失ったような、でも失ったことにすら気づけないような、そういう感じ。次の瞬間には、その感覚もきれいに流れて消えた。
幼いころの俺は、それを言葉にする術を持っていなかった。だから黙って空を見上げて、やがて母のミリアに呼ばれると、何事もなかったように走って戻った。
「リュート、手を洗って。もうすぐ昼ごはんよ」
母の声は穏やかで、いつも少し笑っていた。
――――――
ここは小さな開拓領だった。
先代の領主が辺境伯から命じられ、切り開いたばかりの土地で、王都からは遠く、魔物が生息している森が近かった。街道は細く、市もこぢんまりとして、訪れる商人より顔見知りの農家の数の方が多かった。俺の父は、その領主に仕えていた。
それでもここには、何かがあった。
空気の質、とでも言えばいいのか。朝露が葉の先から落ちる瞬間の澄んだ感じや、風が丘を越えてくるときの草の香り、夕暮れどきに木々の影が地面を長く染めていく時間の流れ方。どれもが、どこか生きているような気がした。
俺はここが好きだった。理由を聞かれると困ったが、好きだった。
静かで、誰も俺に何かを急かさなくて、本を読んでいれば一日が終わる。そういう土地だった。
もっとも、それだけでは済まなかったのだが、それはもう少し後の話だ。
――――――
五歳になった年の春から、剣術の稽古をつけられるようになった。
父のエルドは毎朝、家の庭の隅に作られた簡素な練習場に俺たちを集めた。土を踏み固めただけの地面に、木の柵が四方を囲んでいる。剣の素振り跡が地面に刻まれていて、何年もの積み重ねが土のふくらみになっていた。
「構え。足が開きすぎだ、ランベルト」
父さんの声は低く、しかし怒気はなかった。腕を組んで、ただ見ている。その静けさが、むしろ重かった。
兄さんが木剣を持ち直した。腰を落として、重心を確認するように一度だけ揺れてから、静止した。
「こうですか?」
「もう少し右足を前に。そう。重心が後ろすぎると、踏み込むときに詰まる」
俺は柵の外から眺めていた。木剣は重い。両手で持っても先端が揺れる。それはわかっていた。でも、兄さんの動きを見ているうちに、いつの間にか別のことを考えていた。
重心を後ろに置くと、なぜ詰まるのか。
踏み込むときの体の動きを頭の中で追うと、なんとなく見えてくる気がした。重心が後ろにあれば、前に出る力が半拍遅れる。それが「詰まる」ということなのだろう。
「リュートも来い」と父さんが言った。
俺は小走りで柵をくぐった。
「ランベルトの構えを見ていたか?」
「はい」
「何か気づいたことはあるか?」
俺は一拍考えた。
足の位置は直っていた。重心も、さっきよりはいい。ただ、肩だけが、まだ少し上がっていた。上がっている、というより、上げている、という感じがした。力が入っているのではなく、無意識に何かを堪えているような、そういう固さだった。父さんに指摘される前から、兄さんはそれをわかっていたのかもしれない。だから余計に、直そうとして、直しきれずにいる。
言うべきかどうか、一瞬だけ迷った。
兄さんに面と向かって指摘するのは気が引ける。でも聞かれたなら答えるべきだとも思った。
「……肩、ちょっと力が入ってる、かも」
兄さんが眉を上げた。父さんは小さく頷いた。
「正しい。力を入れすぎると動きが遅れる。剣は振るものだが、力任せに振れば隙になる。わかるか、ランベルト」
「わかりました」と兄さんは答えた。俺を横目で見て、「よく見てるな」と小声で言った。
褒めているのか、からかっているのか、どちらとも取れた。でも悪い気はしなかった。
父さんは二人分の構えを見てくれた。兄さんは丁寧で着実で、同じことを繰り返すうちにどんどん形になっていく。俺はまだ木剣を振るたびに腕がぶれて、何度やっても同じところで詰まった。
父さんは怒らなかった。ただ、静かに言い直してくれた。
「足の位置、重心、目線。この三つを忘れるな」
稽古が終わると、父さんはそのまま公務に向かった。「館でガレス様との打ち合わせがある」と短く言い置いて、練習場を出ていった。
兄さんも、「俺もエリオット様と勉強があるから。またあとでな」と言いながら領主の館の方へ走っていった。
俺は一人、木剣を柵に立てかけて、息を整えた。
腕が疲れていた。でも嫌な疲れではなかった。
――――――
家に戻ると、スーリィが居間で一人遊んでいた。
小さな木の玩具を床に並べて、何やら真剣な顔をしている。俺の姿を見るなり「あーにたま、きたー」と言って、はいと両手を広げた。「抱っこしてほしいらしい」と俺には一瞬でわかった。
「汗かいてるぞ」
「いい」
「本当にいいのか」
「いい」
断る気がないのが顔に出ていたので、俺はため息をついてスーリィを抱き上げた。軽かった。まだとてとて歩きをしているくらいだから、当たり前だが。
しばらくそうして居間の床に座って、俺は片手でスーリィを支えながら、もう一方の手で本を開いた。昨日の続きだ。字はまだ全部読めるわけではないが、わからない字は前後の文脈から推測すれば大体なんとかなる。読めない字があると少し悔しい気持ちになるのは、自分でも少し変だと思っていた。
スーリィは少ししたら飽きて、また玩具のほうへ這っていった。
俺は本のページをめくった。
外から、風の音がした。
――――――
午後が傾いてきたころ、俺はふと顔を上げた。
窓の向こうに、夕日が見えた。
木々の影が伸びていた。日が低くなって、斜めから差し込む光が葉を透かして、地面を橙と緑が混ざったような色に染めていた。陽の光そのものではなく、光が何かに触れることで生まれる色、とでも言えばいいのか。
それを見た瞬間、胸の奥で何かがざわついた。
怖いわけでも、寂しいわけでもなかった。ただ、その光の色を見た瞬間だけ、何か大切なものを置き忘れてきたような感じが、微かに過った。指先でほんの少し触れたかと思えば、もう消えていた。
なんだろう、と思った。
気がつくと、両手が動いていた。
窓の向こうの光を、手のひらで包もうとするような仕草だった。届くはずもない。それはわかっていた。なのに指が、勝手にそういう形を作っていた。何かを大事に持っていたころの名残みたいに。
我に返って、手を下ろした。
なんだ、今の。
気がつくと、本を閉じて立ち上がっていた。
スーリィはまだ玩具で遊んでいた。「ちょっと外に出る」と言うと、スーリィは「うん」と頷いた。母さんには声をかけた方がいい気がしたが、台所の方から夕食の支度をしている音が聞こえていたので、遠くへ行くつもりはないから大丈夫だろうと判断した。俺は静かに戸を開けて、外に出た。
――――――
足がなんとなく、領地の端の方へ向いた。
意識して歩いているというより、引き寄せられているような感じだった。気がついたら、開拓地の外れにある石積みの古い壁の手前まで来ていた。
開墾の名残だ。先代の領主が境界を示すために積ませた石垣が、今は半ばで崩れて草に飲まれつつある。その脇に、大きな木が一本立っている。樹齢は相当なもので、幹が大人の両腕でも抱えきれないほど太い。根元の方に苔が生えていて、ちょうど体がすっぽり隠れるくらいのくぼみがあった。
そこに腰を下ろすと、なんとなく落ち着いた。
背中が木の幹に触れて、その硬さが心地よかった。脚の下の土は少しひんやりしていて、草の葉が膝に当たった。夕風が丘の向こうから来て、葉をさわさわと揺らしていく。
遠くで鳥の声がした。
それから、少し間があって。
何かが、いた。
見えるわけじゃなかった。音もなかった。ただ、気配、とでもいうものが、すぐ近くにあった。温かいような、涼しいような、どちらでもないような感触が、空気ごとふわっと変わった。まるで誰かが隣に来て、静かに座ったような。
俺は動かなかった。
怖くはなかった。
なんというか、ほっとした。それだけでは足りない気もするが、他に言いようがなかった。怖くないという話でも、好きという話でも、たぶんない。もっと根っこのところで、ただ、安心した。誰かと同じ場所にいるときの静けさ、とでも言えばいいのか。長い時間を一緒に過ごした誰かが隣にいるような、言葉も要らない、ただそこにいればいいような、そういう感じが、ふわっとあった。
なぜそう感じるのか、俺にはわからなかった。その「誰か」が誰なのかも、わからなかった。ただ、その何かは悪いものじゃないと、体全体がそう言っていた。
どれくらいそうしていただろう。
気配は静かに薄れた。来た時と同じように、音もなく消えた。あとには夕暮れの光と、土の匂いだけが残った。葉の隙間から赤い光が細く差し込んで、苔の上に点々と落ちていた。
俺は立ち上がり、家に向かって走り出した。
精霊、という言葉は、まだ知らなかった。ただ、それがなんであれ、嫌いじゃないと思った。
――――――
夕食の片付けを手伝っている時、母さんが言った。
「今日、どこか遠くに行ってなかった?」
俺は少しだけ固まった。
「……ちょっとだけ」
「石壁の方?」
「わかるの?」
母さんは笑った。
「あなたが帰ってきたとき、草の匂いが違ったから」
背は高くなく、ものを静かに見る人で、怒った声を聞いたことがない。料理が上手くて、雨の日は家中が温かい匂いになった。精霊の気配をうっすら感じ取れる人で、それを本人は特別なことだと思っていない様子だったが、俺にはなんとなく不思議だった。
「あそこに何かいる気がした」と俺は言った。
母さんは少し表情を柔らかくした。
「そう。それはね、きっと精霊よ」
「せいれい?」
「この土地には多くいるの。いい子たちよ。怖くなかった?」
「全然」
母さんはまた笑った。今度はさっきと少し違う笑い方で、何か嬉しそうなものが混じっていた。
「リュートはきっと、あの子たちに好かれるわ。そして、あなたも」
その言葉の意味を、そのころの俺はまだよく理解していなかった。
――――――
夜、兄さんと同じ部屋で横になりながら、俺は天井を見ていた。
木の梁が走っていて、節のところに影が溜まっている。外から虫の声が聞こえた。遠くで風が木を揺らしていた。
「兄さん」
「なんだい?」兄さんの声は眠そうだった。
「精霊って、どんなもの?」
少し間があった。眠気が醒めたのか、布団の中で体が動いた。
「俺もよく知らないけど……見える人には見えるらしい。母さんはわかるみたいだし。お前は?」
「見えないよ。でも、なんかいた気がした。夕方、石壁の木のとこで」
兄さんが起き上がった。暗がりの中でも、少し真剣な顔をしているのがわかった。
「本当に?」
「うん」
「……父さんには言うなよ、今は。変に心配するから」
「なんで心配するの?」
「領地の端は魔物が出ることもあるから。一人でそっちに行くのは怒られる」
「あ」
「まあ、今日は黙っておいてやる。次からは俺に声をかけろ」
そう言うと兄さんはまた横になった。しばらく経って、寝息が聞こえてきた。
俺はまだ起きていた。
天井を見ながら、あの夕方の気配を思い出していた。温かくて、静かで、何も要求しない何か。怖くない。好きとも少し違う。ただ、自分がそこにいることが、自然な感じがした。
それでいい気がした。
目を閉じると、わりとすぐに眠れた。
土の匂いの夢を見た気がしたが、目が覚めると忘れていた。
次話は15:00投稿予定です。




