第76話 冷えていく指先
(ヘルミーネ視点)
二週間後、学院長室でエーレンバルトから報告を受けた。
「大会の申請状況はどうですか?」
「八十人ほどが申請しました」エーレンバルトはそう答えながら、申請者の一覧表を差し出した。
それを受け取り、一通り目を走らせた。各学年の比率、成績上位者の有無、参加意欲の高い生徒の傾向。ひと通り確認してから、「では、抽選ですか?」と問いを返した。
「いえ、成績等を考慮して選抜いたします。ただ、四年生は最後の機会ですので、全員参加させようと考えています」
少し間を置いた。
「バルネルト君も、ですか?」
「はい、バルネルトも、です」
静寂が室内に満ちた。もう一度、確かめるように繰り返した。
「バルネルト君も、ですか」
「彼の精霊術はまだ不安定な状態のはずです。やはり、彼は外すべきではありませんか?」
「いえ、申請をしている以上、バルネルトの意思です。それに、大会のために皆励んでおり、バルネルトも同様です。このことが彼の精霊術のさらなる回復につながるかもしれません」
そういう考え方もあるか、と思った。ただ、簡単に納得できるほど単純な問題でもなかった。彼が再び崩れたとき、大勢の前でそれが起きたとき、何が残るか。
「わかりました。ただ、十分に注意してください」
「承知しました」エーレンバルトは一礼し、部屋を出た。
一覧表に目を落とした。視線が止まる。一点を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「何事もなく、無事に終わってくれればいいのですが……」
声は、誰にも届かないまま室内に消えた。
――――――
(ユリウス視点)
学院の空気が、大会へ向けて変わっていった。
参加申請をした生徒は誰もが優勝を目指して練習に励んだ。廊下を歩くと、そこかしこで戦略の話が聞こえ、訓練場は朝から埋まっていた。誰かが詠唱に成功したのか、歓声が上がることもあった。逆に参加しなかった生徒はお祭り気分のような浮ついた雰囲気で、それを注意して回る者もいた。注意するだけでなく、大会の話を熱心に持ちかけているのを何度か目にした。規律を保つ以上の、別の目的があるかのような動き方を不思議に思った。
参加者の発表があり、僕の出場が決まった。
出場定員よりも申請者が多かったにもかかわらず、選ばれた。
父の顔に泥を塗らずに済む——その安堵と、現実に決まったという緊張が、胸の中で混じり合った。
発表の後、熱気は日に日に増していった。その熱の中で、東屋に一人でいた。
七月に入った頃から、詠唱を始める前に手が止まるようになっていた。最初は原因を探そうとした。詠唱の速度か、集中の深さか、場所か、時間帯か。変えられるものは全て変えた。だが何を変えても、結果は同じだった。指の感触が毎回違った。昨日感じた手のひらの温もりが、今日は詠唱を終えても残らなかった。その違いに名前をつけることすらできなかった。まだ、安定していなかった。
むしろ——少し、安定しなくなっている気がした。
――――――
大会直前、それが顕著になった。
次に、原因を探すことをやめた。考えずに体だけを動かせば届くかもしれないと思った。だが体は正直で、迷いを隠せなかった。
練習するほど手ごたえが遠ざかった。詠唱するたびに「また変わった」という事実だけが積み重なった。
訓練場の声が、東屋まで届いていた。誰かの詠唱している声だった。みんなが前に進んでいた。
その事実が焦りを呼び、焦りが詠唱の言葉を上滑りさせた。上滑りした詠唱は、精霊に届かない。そうとわかっていても止められなかった。
アーデンの姿を見て、胸の奥が高鳴ったあの感覚を、練習するたびに呼び戻そうとした。だが、今の僕の指先は冷たいままだった。
——届かなかった。
この状態で大会に出る。その事実を正面から見ると、手が震えた。
大会直前の学院は熱に包まれていた。出場者たちの声が廊下に響き、訓練場の灯りが夜も消えなかった。
その熱の中心で、僕だけが冷たくなっていた。
――――――
(精霊術学院 訓練場)
八月一日、朝。
訓練場に特設舞台が設けられていた。木組みの檀と、その周囲を囲む観客席。夏の朝の空気はまだ澄んでいたが、そこに観客たちの熱気がじわじわと混じり始めていた。
開始前から席が埋まりつつある。出場者たちが舞台上の所定の位置につく。遠くの観客席から声援が飛ぶ。
開始の時刻が近づいていた。




