第75話 書けなかった名前
(リュート視点)
アレクシス殿下が卒業して一ヶ月が経った。
四月になり、俺たちは四年生になった。進級初日の朝、講義棟の掲示板に一枚の紙が張り出された。生徒会の印が押されていた。
集まっていた生徒たちの背中越しに、それを読んだ。
内容は四点。生徒会役員体制の拡充——昨年までの人数を倍に増やす。規律の強化——訓練場の利用管理、夜間外出への注意喚起、精霊術使用規則の再確認。巡回の強化。生徒会活動の見える化——掲示板の更新頻度を上げ、各種委員会を整理する。
初日から動いた。
掲示板の前では、これを読んだ生徒たちの反応がすでに割れていた。感心するように頷いている者がいる一方、面倒くさそうに舌打ちをしている者もいた。どちらが多いか、数えるほどのことでもなかった。
それよりも、俺が感じたのは、この静かな整然とした告知に、アレクシス殿下の時代との違いが滲んでいることだった。アレクシス殿下は、制度を作ることよりも空気を作ることで学院を治めていた。ラインハルトはその逆——制度から入る。どちらが正しいかという話ではない。ただ、学院の感触が変わった。
――――――
その日の最後の授業は、精霊術大会の説明会に振り替えられた。
クラスごとに行われた説明の内容を、正面の黒板を見ながら聞いた。大会は八月。一回戦から決勝まで七日間。学院訓練場に設けられる特設舞台で行われ、観客席と来賓席が用意される。敗北条件は場外、降参、気絶、続行不能、禁止行為のいずれか。頭部と急所への攻撃、直接の物理攻撃は禁止。精霊術を介した攻撃や身体強化、道具の持ち込み、回復精霊術は許可。制限時間はなし。賞典は入賞者に記念の盾が贈られる。出場は有志申請で、締め切りは五月末日。
出場するつもりはなかったが、観戦くらいはしてもいいかもしれないとは思った。
「リュートはどうするの?」
説明会が終わり、いつもの場所に三人が集まったところで、クラリスが聞いてきた。
「有志ということだし、俺はいいかな。無理に戦いたいわけでもないしな」
「私も同じかな。怪我をさせるのも、させられるのも嫌だし」アリシアが続いた。
「クラリスは詠唱の精霊術も使えるから、出てもいいんじゃないか?」
「あたしも出ないよ」クラリスは少し顔を顰めながら答えた。「精霊を感じられるようになってから、詠唱の精霊術は使う気にならないんだよね。精霊が辛そうで……」
「じゃあ大会は三人で観戦だね」
「そうだな」「うん」
――――――
(ユリウス視点)
夜、寮の自室に戻ると、机の上には出かける前に置いた紙がそのままあった。
それを見下ろしたまま、椅子を引かなかった。大会参加の申請書だった。
父からの手紙は一週間前に届いていた。申請書の前に立って、その中の一行だけが頭に浮かんだ。お前ならきっとできる——そう書いてあった。丁寧な筆跡で、父の顔が浮かぶような字だった。
どのくらいそこに立っていたのか、気がつけば窓の外は夜の深さを増していた。
今の僕の精霊術の状態は、僕自身が一番よくわかっている。一年前よりは確実に戻ってきていた。それでも、詠唱するたびに感触が変わる。指に宿る温度が違う。同じ言葉を唱えても出てくるものが違う。試合になれば、そのばらつきは全て、相手の前に晒される。
出場すれば、負けるかもしれない。負ければ、父の顔に泥を塗ることになる。
ただ、出場しなければ、父の想いを最初から裏切ることになる。
申請書を手元に引き寄せ、羽ペンを取った。
名前の一文字目を書こうとした。羽ペン先が紙に触れた。
そのまま動かなかった。字を書こうとしているのに、手首の先が言うことを聞かなかった。
――――――
翌日からも練習を続けた。
昨日、指先に確かに感じた温もりが、今朝は最初からなかった。同じ詠唱文を、同じ速度で、同じ場所で唱えた。なのに、違う。何が違うのかわからない。それが一番苦しかった。手ごたえのなさに慣れるより先に、「なぜ変わるのか」という問いだけが積み上がっていった。
提出期限の前日、いつもの東屋で詠唱を繰り返していると、中庭の向こうに人影が見えた。アーデンたちが連れ立って歩いていた。
特に言葉はなかった。ただ、あいつを視野に捉えた瞬間、何かが胸の奥で動いた。
以前、あいつが何かに成功したときの高鳴りだった。
気がつくと、東屋を出ていた。練習の続きをしようという気持ちではなかった。ただ、詠唱文が口の先まで出てきていた。
寮に戻り、申請書に名前を書いた。
次の日、申請書を提出した。




