第74話 引き継ぎ
(ユリウス視点)
三月の光は、冬が終わったことを告げる種類の柔らかさを持っていた。それでもまだ石畳は冷たく、日陰では吐く息がわずかに白くなった。
中庭の片隅にある東屋の柱に寄りかかり、掌を上に向けた。
「清廉の雫よ、我が手に集え」
詠唱を口にした瞬間、指の内側に、ぬるい水の膜が張るような感触があった。一年前に比べれば確かに変わっている——手のひらの上で、水の塊がゆっくりと形を成していった。球面はきれいに保たれ、その中心でうっすらと光が揺れていた。ただそれだけだ、と思った。戻ってきた、ではなく、ここまでは来た、という感覚だった。
水球はその形を保ったままでいた。それを確かめるようにしばらく見つめてから、息を吐くように霧散させた。
学院全体がどこかそわそわとしていた。四日後に迫った卒業式の準備で、職員も上級生も追われているせいだろう。廊下を歩けば箱を抱えた係の生徒とすれ違い、玄関ホールでは来賓用の席の配置について教師たちが声を立てていた。
去年は、こうではなかった。一昨年も。
もう一度、今度は集中をわずかに緩めたまま同じ詠唱を口にした。
「清廉の雫よ、我が手に集え」
手のひらに生まれた感触は、さっきより薄かった。水球は一回り小さく、球面が微かに歪んでいた。同じ詠唱文を、同じ速度で、同じように唱えたつもりだった。なのに何かが違った。指先の感触が、昨日とも今朝とも違う。どこで変わるのか、なぜ変わるのか、繰り返しても答えが出なかった。
水球を霧散させ、掌を静かに握った。何も残っていなかった。温もりも、湿りも、何も。
そわそわとした空気の原因は、準備だけではないと思っていた。
次の生徒会長はラインハルト、か。
思わず声が出た。ラインハルト個人を嫌っているわけではない。実力も統率力も、貴族として申し分ない。それでも、アレクシス様からラインハルトに変わることへの不安は——おそらく僕だけではなく、学院中の生徒が薄々感じているはずのものだった。何かもう少し違うものが、卒業式の慌ただしさに混じっている気がした。
もう一度、今度は丁寧に集中を整えてから詠唱した。
――――――
(アレクシス視点)
卒業式は、静かな厳粛さの中で執り行われた。
整列した在校生の前で、壇上には礼服を着た卒業生たちが並んでいた。アルトリース学院長が一人ひとりに証書を手渡し、卒業生は一礼してから壇を降りる。それを繰り返すだけの、飾り気のない式次第だった。
卒業証書を両手で受け取り、振り返った。
後輩たちの顔が、一面に広がっていた。
アーデンはといえば——いた。どこか中庭の木でも眺めるような目をしていた。壇上の私を見ているのかいないのか判別がつかなかった。もう少し感情が滲んでくれてもいいだろうと思わないでもないが、これがアーデンなのかもしれない。代わりに、アーデンの隣に座っていたブランデルとラントベルクが、泣きそうな顔をしていた。
もう一人へと視線を巡らせ、バルネルトを見つけた。座ったまま微かに前のめりになっていた。壇上を見ているようで、視線の焦点が合っていなかった。口元だけ、緊張のように引き結ばれていた。
アレクシスは壇上から静かに下りた。
――――――
式が終わると、後輩たちが挨拶にやってきた。
取り入ろうとする目が、残念ながら一番多かった。寂しさを顔に出してくれる生徒の方がずっと好ましかったが、それが現実というものだろう。
その波の合間から、アーデンが帰ろうとしているのが見えた。
全くあいつは——挨拶くらいしてから帰ればいいものを。
近くの後輩に一言告げながら、アレクシスはアーデンの方へ歩き出した。人混みを抜けてちょうど端に差し掛かったところで声をかけた。
「アーデン、少しいいか?」
アーデンは立ち止まり、振り向いた。
「アレクシス生徒会長、卒業おめでとうございます」一拍おいて、「ええ、大丈夫です」と続いた。律儀な応答だった。
「では、ついてきてくれ」
少し離れた場所に、ルーカスが立っていた。目が合い、小さく頷いた。私も頷き返した。
それで十分だった。そういう阿吽の呼吸で動いてくれる存在が、いかにありがたいか。
――――――
生徒会室へと向かう廊下は、式典の余韻でひっそりしていた。廊下に足音が二つあった。アーデンのものは私の少し後ろで、静かに一定の間隔を保っていた。声をかけてくる気配はない。追い立てる必要がないと理解しているからか、それとも単純に話しかける気がないのか、どちらともわからなかった。
部屋に入り、数歩進んでから、立ち止まって振り返った。
「アレクシス生徒会長、それで用件は何でしょうか?」
しびれを切らしたのか、アーデンが先に口を開いた。らしい切り出し方だった。
「つい先ほど卒業したからな。私はもう生徒会長ではないな」
「そうですね。では、アレクシス殿下。どのような御用でしょうか?」
言い直す。やはり律儀だ。
「アーデン、君に助言を伝えておこうと思ってな」
「はい……」
そういう顔になるよな、と思いながら、アレクシスは続けた。
「君のことはずっと見ていた。君が以前言った、大切な人を守れるようになりたいという想いは本物だろう。だが、気をつけろ。そのように感情で動く者は、いつか善意だけでは足りない場面に立たされる」
アーデンは無言で聞いていた。なぜこんなことを言われるのか、という目をしながらも、逃げずに聞いていた。
「善意だけでは守れない——その時はブレるなよ」
そのとき、扉がノックされた。
「少し待て」扉の方へ向かって声を出した。
「今はわからなくていいさ。ただ、覚えておいてほしい。それだけだ」
少しの沈黙があった。アーデンが私の言葉と向き合っているのだとわかる間があって、「……はい、わかりました」と返ってきた。
頷き、後ろを向いた。
窓の外には、春の光の中に学院の庭が広がっていた。
――――――
(リュート視点)
アレクシス殿下が窓の外に視線を向けた。
話は終わりということだろう、と思った。
アレクシス殿下が言いたかったことは、正直よくわからなかった。「善意だけでは守れない」——その言葉だけが、引っかかるように残った。変なことを言う人ではない。きっと意味がある。今は、それだけでいい。
「失礼します」と一礼した。
「ああ」と、アレクシス殿下は振り向かずに返した。
扉を開けると、廊下にラインハルトがいた。その後ろにヘルムートとカスパー——次期副会長の二人もいた。引き継ぎに来たのだろう。
ラインハルトと目が合った。それだけだった。特に言葉を交わす必要はなかった。俺は生徒会室を後にした。
廊下を少し歩いたところで、背後の扉の向こうからラインハルトの声が届いてきた。
「これからは、私が殿下に代わってこの学院の秩序を守ります」
はっきりと通る声だった。それだけの思いがあるから、これだけ通るのかとは思った。ただ、足は止めなかった。
前からルーカス副会長が歩いてきていた。どう挨拶するべきか、考える間はなかった。
その場に立ち止まり、頭を下げた。
すれ違いざまに、ルーカス副会長の手が肩に置かれた。言葉はなかった。ただその手には、何かが込められていた。重さというより——想い、と呼ぶ方が近い気がした。
手が離れ、ルーカス副会長はそのまますれ違っていった。
顔を上げ、また歩き出した。




