第73話 夏の終わりに
(リュート視点)
翌朝、辺境伯邸の客室で目が覚めた。
柔らかなベッドから起き上がり、しばらくぼんやりとしていた。天井の石組みが目に入った。よく見えた。昨夜よりも体の力が抜けていた。緊張は収まっていた。
今日のことを考えた。朝食が終わったら荷物をまとめて、王都へ向かう。それだけだった。夏季休暇の終わりまでまだ時間はあるが、ここから王都までの移動でそのほとんどがなくなる。辺境から王都というのは、そういう距離だった。
支度を整えていると、扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします。朝食のご用意が整っております」扉越しに若い女性の声が響いた。
「ありがとうございます。すぐに向かいます」そう答えながら、本当に辺境伯邸に泊まったんだな、と思った。まだ少しだけ夢の中にいるような気がした。
食堂に着くと、アリシアが先に来ていた。
「おはよう」と言ったら、「顔が昨日より生きてる」と返ってきた。
「そんなに死んでたか?」
「半分死んでた」アリシアが少し笑った。
しばらくして、アマーリエ様が入り、その後にヴァルデンブルク様が入ってきた。
「おはようございます」と俺とアリシアが挨拶した。
「昨日より顔色がいいな」ヴァルデンブルク様が俺の顔を見て、小さく笑いながら言った。昨夜より言葉が軽かった。
「昨日は緊張していましたから」と答えた。
使用人たちが静かに皿を並べていった。焼き立てのパンの香りが広がった。
ヴァルデンブルク様がナイフへ手を伸ばし、「覚める前に食べるといい」と言った。その言葉を合図に俺たちも朝食に手をつけた。
「馬での旅だったのだろう。疲れもあったはずだ」ヴァルデンブルク様が言った。
「はい。でも、思っていたより早く着けました」
「道中は問題なかったか?」
「少し魔物には遭遇しました。でも、そこまで危険なものではありませんでした」そう言うと、アマーリエ様が少し目を丸くした。
「まあ……お二人だけで?」
「はい」アリシアが静かに頷いた。
ヴァルデンブルク様が、「学生とはいえ、もう立派な精霊術師ということか」と低く言った。「帰りの旅も気をつけて」アマーリエ様が気遣ってくれた。
――――――
食後、玄関で荷物をまとめた。ヴァルデンブルク様とアマーリエ様が待っていてくれた。
「短い間でしたが、本当にありがとうございました」アリシアが頭を下げた。「お世話になりました」と俺も頭を下げた。
「気にするな」とヴァルデンブルク様が言った。少しだけ間があって、「君たちの顔を見られてよかった。安心した」と続けた。
胸の奥が、少しだけ熱くなった。一度、目を伏せた。
「……ありがとうございます」俺がそう答えると、アマーリエ様が柔らかく微笑んだ。
「次は、もう少しゆっくりグランヴァルクを見て回ってくださいね」
「はい。市場も、まだ全部は見られていませんし」アリシアがそう返すと、「それは勿体ないな」ヴァルデンブルク様が小さく笑った。
「この街は、朝と夜で空気も変わる。特に北門側は面白い」
「あなた、また変なものを勧めて」アマーリエ様が少し呆れたように言った。
「変ではない。あそこがこの街の本当の姿だ」そう言ったヴァルデンブルク様は、少しだけ誇らしそうだった。
「……また機会があれば、来ます」俺がそう言うと、ヴァルデンブルク様が静かに頷いた。
「ああ。残りの学院生活も悔いのないよう過ごせ」
「はい」俺とアリシアは同時に返事をした。
その言葉を最後に、辺境伯邸を後にした。
邸の門を抜けると、グランヴァルクの朝の空気が肌に触れた。昨日とは違う気がした。同じ街なのに、緊張が薄れた分だけ、音の聞こえ方が変わっていた。石畳を踏む足音。遠くの市場の声。行き交う人の話し声。それらがようやく、外側の音として耳に入ってきた。
――――――
城門のところの厩舎から馬を引き取り、グランヴァルクを出発した。南へ向かった。
しばらく進むと、行きで通った道だった。どこで馬が水を飲みたがるか、どこで草が多いか、体がもう覚えていた。帝国の気配がある北の空気が、少しずつ王都側の色合いに戻っていった。道の両脇の植生が変わり、空も少し白みを帯びてきた。
魔物との遭遇も何度かあったが、二人で対処した。行きと変わらなかった。
グランヴァルクを出発しておおよそ二週間後、王都の城壁が視界の奥に浮かんだ。
ブランデル領に着いた時とは違う感覚だった。帰ってきた、ではなく、戻ってきた、という感じだった。この街は自分の場所ではないが、今は自分がいる場所だった。あの頃は違いがわからなかった。今はわかる。
「今回の旅、よかったね」とアリシアが言った。
何がよかったかは、言葉にしなかった。でも、聞く必要もなかった。
「そうだな……」と返した。
スーリィが自分の言葉で話していた。ヴァルデンブルク様が「安心した」と言ってくれた。
王都の門をくぐり、馬の脚を緩めた。借りた馬を厩舎に返す時、首筋を撫でながら「また機会があったら頼むな」と言って別れた。アリシアも馬に何か言っていた。馬が一度だけ鼻を鳴らして、それで終わった。
それから学院へ向かった。出発した朝に歩いた通りを、今は逆方向に進んでいた。同じ石畳、同じ建物の並び。ただ、見ている方向が違った。行きに背中で見ていた景色を、帰りは正面から見ていた。どこか違う道のように感じた。
「次に帰れるのはいつかな?」とアリシアが歩きながら言った。
「何もなければ来年の夏季休暇か。まぁ卒業の時は必ず帰れるさ」
「楽しみだね」とアリシアが言った。
学院の門をくぐった。
夏の終わりの光が、石畳に長く伸びていた。
――――――
(グランツィリア大聖堂)
窓が高く、光が遠かった。
石造りの部屋に、三人の人間がいた。
「──以上が、学院に要望しようと考えている内容です。
つきましては、大司教猊下、教会にもご支援いただきたく」
ヴォルフガング・フォン・ハルトヴィン侯爵が言葉を結んだ。背筋が真っ直ぐだった。
グレゴール・フォン・リーベンフェルス大司教は、すぐには答えなかった。指を静かに組み、ひとつ息を落とした。
「教会もお手伝いしましょう」
間があった。
「ですが──その理由では、学院が首を縦には振らぬのではありませんか?」
ヴォルフガングは、一拍だけ置いた。
「三点あります」
声に迷いはなかった。
「通常の授業では見出しにくい才能の発掘。生徒が自らの立ち位置を知る機会。そして、競争による精霊術そのものの発展です。実際に、そのような価値があるものです。説明に偽りはありません」
一つひとつ、淡々と並べた。言葉に過剰な熱はなかった。
黙って説明を聞き終えたグレゴールが、かすかに口元を動かした。
「では、問題ございませんね」
視線が、部屋の端へ向いた。
「ルーフェン司教。ハルトヴィン侯爵には、然るべき協力なさるように」
控えていたルーフェンが、静かに頭を垂れた。
「承知いたしました。猊下」
それだけだった。
高い窓から差し込む光が、三人の影を床に長く伸ばしていた。




