第71話 スーリィの選択
(リュート視点)
また数日が経ったある午後、アリシアが家にやってきた。
スーリィと遊ぶ約束をしていたようだった。俺は特にやることもなかったので、そのまま加わった。
三人で村の中を歩いた。スーリィが「これやろう」と言うことに二人で付き合った。
地面に並べた石を踏まずに飛んでいく遊び。順番に石を積み上げて、どちらが高く積めるか競う。
スーリィは真剣で、アリシアもいつのまにか本気になっていた。アリシアが崩れかけた石を手で押さえようとしたのを見て、スーリィが「ずるい!」と言い、アリシアが「押さえてない、ただ近くに手を置いてただけ」と言い返していた。
そういうやり取りを、俺は少し離れたところから見ていた。
アリシアのスーリィへの接し方が、学院にいる時とは違う気がした。誰かに何かを「教える」のとは違う、もっと自然に相手の中に入っていく接し方だった。スーリィもそれを知っているのか、アリシアといる時の声のトーンがわずかに違った。そういうことができる人なんだな、とぼんやり思いながら、二人の後ろをついて歩いた。
夏の午後の日差しの中を歩いているうちに、気がつくと日が傾きかけていた。
三人で家に戻ると、玄関のところでアリシアが「そろそろ帰るね」と言った時、ちょうど母さんが顔を出した。
「せっかくだから、夕飯を一緒に食べていきなさい」
「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて」アリシアが笑顔で言った。
――――――
夕食はにぎやかだった。しばらくして、母さんが「学院はどうなの?」と聞いた。
俺とアリシアは学院のことを話した。
寮生活の最初の孤独と慣れるまでの辛さのこと。精霊術の授業のこと。貴族社会の空気と身分という現実のこと。仲間ができたこと。精霊術が伸びていくこと。
「アリシアお姉ちゃんはどうだった?」
「最初は大変だったけど、慣れたよ。今は行って良かったと思ってるかな」アリシアが答えた。
「何が一番大変だった?」とスーリィがさらに聞いた。
「最初の頃は、話しかけていいのかもわからなくて……一人でいる時間が多かったかな」とアリシアが少し遠くを見るような目で言った。
「でも、そういう時間があったから、精霊術と向き合えたし、今となってはよかったとも思ってるよ」
スーリィが、少し黙った。居間の時計の音が、しばらくの間だけ、はっきり聞こえた。
俺は何も言わなかった。アリシアが話しかけていいかもわからなかった時期があったということを、俺は知らなかった。同じ学院にいたのに、知らなかった。ただ、今のアリシアがその時間の先にいるということは、わかった。
話が進むうちに、卒業の話になった。
「俺たちはあと一年で卒業だ。その後の三年間、スーリィは一人になるな」
「……そっか」スーリィが呟いた。
テーブルの上で静かな時間が流れた。父さんも母さんも口を出さなかった。スーリィがどう思うかを、待っていた。
スーリィが、ゆっくりと口を開いた。迷っているのではなかった。自分の中にあるものを、言葉にしようとしていた。
「私は行かなくていいと思ってるの。……今は、ここにいたいから」
外を否定しているわけではなかった。行きたくないということでも、怖いということでもなかった。「今は」という言葉の中に、全てが詰まっていた。
「わかった」父さんが言った。
「あなたが決めたことが大切なのよ」母さんが言った。
「そうだね」
「じゃあ、私たちが帰ってきたら一緒に練習しようか」アリシアが言った。
「うん。ありがとう」スーリィが笑顔になった。
「俺も教えるぞ」兄さんが言った。
「ランベルトお兄ちゃんは精霊術使えないでしょ」スーリィが即座に指摘した。
「剣術だよ」兄さんが言い返すと、笑い声が居間を満たした。
父さんと母さんが、少しだけ嬉しそうにしていた。スーリィの成長をまだ見ていられる——二人の表情が、そう言っていた。
しばらくして場がほぐれ、アリシアは館に帰っていった。夜の草の匂いが、開け放した玄関から入ってきた。
――――――
翌日の午後、俺とアリシアが庭で精霊術の練習をしていると、スーリィが近寄ってきた。
「私の精霊術を見てみてくれない?」
「お、いいな」と俺が答えた。アリシアも「私も見たい」と言った。
スーリィが発動した。両手の前に水が集まり、宙に浮かんだ。まだ拙さはあった。形が揺れる。でも、確かに発動していた。
精霊の反応を見た。怯えも嫌悪もなかった。楽しそうな感触があって、しかもそれに慣れた感じがあった。精霊とスーリィがすでに馴染んでいる、という感触だった。力ずくでも緊張でもなく、自然にそこにいる、という感じ。精霊もそれを知っているようだった。スーリィらしいな、と思った。
「上手だよ」アリシアが言った。
「一人でそこまでできるようになったんだろ。いいじゃないか」俺が言うと、スーリィが照れた様子で笑顔になった。
「……最初、どうだった?」と俺は聞いた。
「え?」
「初めて発動した時。どんな感じだった?」
スーリィが少し考えるような顔をした。
「なんか、お願いしたら来てくれた、って感じ。ちゃんと聞こえたんだなって思った」
「精霊に?」
「うん。呼んだら、来てくれた」
クラリスは長い時間をかけて、そこに辿り着いた。スーリィは最初からそこにいた。どちらがいいとか悪いとかではなかった。ただ、スーリィには、誰かに教わる前から精霊との間にすでに何かが根付いているように思えた。
「それ、大事にしろよ」
「わかってる」スーリィが少し誇らしそうに言った。
「じゃあ、お返しに面白いものを見せてあげよう」
スーリィが、何?という顔になった。
炎と、土を、同時に呼んだ。スーリィの目の前に、二つの球体が現れた。
「え、どうやったの?もう一回見せて!」
「じゃあ今度は私がするね」アリシアが言った。
スーリィが驚いた顔でアリシアを見た。アリシアはスーリィがちゃんと自分の方を向いたことを確認してから、二重発動を行った。同じように、炎と土の球体が発現した。
「私もやってみる」スーリィがそう言って真似を試みた。当然できなかった。眉をひそめながら何度か試して、それでもできなくて、小さく息を吐いた。
「できない。お兄ちゃんもアリシアお姉ちゃんもすごいね」
「帰ってきたらスーリィにも教えてあげるね」アリシアが言った。
「それまでは内緒だぞ。スーリィができるようになったら、三人で皆の前で見せて、驚かせよう」
「うん、わかった」スーリィが目を輝かせながら頷いた。
その後、しばらく三人一緒に練習した。夏の光が庭に降り、精霊が三人の周りで静かに動いていた。スーリィの精霊術はまだ小さかったが、精霊は嬉しそうに応えていた。
――――――
出発の前夜。夕食が終わって、俺はスーリィに声をかけた。
「ちょっといいか。少し外に行かないか?」
「うん」とスーリィは頷いた。
「少し出てくるね」と家族に言い、家を出た。
丘の方に向かった。途中でアリシアが待っていた。三人で丘を登り、大きな岩のところに来た。並んで腰を下ろした。
夏の夜だった。虫の声がそこかしこから聞こえた。空が広かった。星がよく見えた。草の匂いを含んだ風が、間をおいてゆっくりと流れていった。
岩に手を置いた。冷たかった。前に来た時も同じ感触だったかどうか、思い出せなかった。ただ、この場所にいることが、体の奥のどこかに静かに触れた。言葉にはしなかった。
空の星の話をした。村の話。学院の話を少しだけ。スーリィが星のひとつを指さして、「あの星に名前はあるの?」と聞いてきた。俺は答えられなかった。「俺も知らない」と言うと、「じゃあ今日だけ「スーリィ星」にする」とスーリィが言った。アリシアが「いいね」と笑った。そんな話をしているうちに、スーリィが少し寂しそうに言った。
「明日、行っちゃうんだね」
「そうだな。まぁ、あと一年半で帰ってくるさ」
「帰ってきたら、スーリィに精霊術を教えるからね」アリシアが笑顔で言った。
「うん」スーリィが答えた。少し間があって、スーリィは体の力を少しだけ抜いた。
草の匂いを含んだ涼しい風が、ゆっくりと流れていった。夏の夜の空気は思いのほか澄んでいて、遠くの山のシルエットが星空の下にかすかに見えた。
「そろそろ戻るか」俺が言った。
「うん」アリシアとスーリィが同時に頷いた。
立ち上がり、丘を下った。スーリィが少し先を歩いていた。夏の草の匂いが、夜に濃くなっていた。




