第69話 夏の旅路
(リュート視点)
夏季休暇の前夜、寮の廊下の空気がいつもとは違っていた。
扉越しに聞こえる足音の種類が変わっていた。重い鞄を引きずる音。弾んだ笑い声が廊下の奥から響き、また遠ざかっていった。帰省する者たちの準備が最終段階に入っていた。
俺も荷物をまとめた。着替えを畳んで革鞄に押し込み、銅貨と銀貨を数えながら革袋に移した。道中で使う地図、旅用の石けんと包帯。家族への土産は先週のうちに選んでおいた。必要なものだけにしたつもりだったが、鞄の口がいくらか膨らんだ。
鞄の口を縛りながら、帰る理由を一つずつ確かめた。ヴァルデンブルク様への挨拶が入学以来できていないこと。二年半以上帰っていないこと。そして——母さんの手紙に書いてあった、スーリィの精霊術が発現したという知らせ。手紙を読んだ時、最初に来たのは「直接見たかった」という気持ちだった。
もし、スーリィが精霊術学院に入学するなら、入学試験は来年の四月となる。冬期休暇はひと月しかなく、この夏を逃すと、顔を合わせて話せる機会がなかった。
王都からブランデル領までは、馬車で帰ると往復に六週間近くかかる。馬で行けばそれが四週間に縮まる。せっかく帰郷するのだから、家にいられる時間を伸ばすため、馬を手配することにした。手配は三日前に済ませた。
鞄を窓際に置き、ベッドに腰を下ろした。窓の外に夏の星空が広がっていた。
その星空を見ていると、クラリスが対話式精霊術を初めて発現させた日を思い出した。あの日の夜もこんな星空が広がっていた。
何度目かの試みで、クラリスがそれまでと少し違うことをしたのが、精霊の感触でわかった——精霊がわずかに動いた。次の瞬間、クラリスの手の前に小さな光が灯った。
それを見たアリシアが、クラリスに抱きついた。クラリスが驚いた顔でアリシアの背中に手を回していた。三人で続けてきた練習が、そのかたちで実を結んだ。その場面を今でもはっきり思い出せた。その後からクラリスは、俺を「リュート」と呼ぶようになっていた。
そんなことを思い出させる星空だった。
学院の石造りの庭が、星明かりの中で静かに沈んでいた。廊下の音が少しずつ静まり、夜がゆっくりと深まっていった。
――――――
翌朝、約束していた学院正門の前にアリシアが先に来ていた。クラリスも見送りに来てくれていた。
「忘れ物はない?」アリシアが確かめるように聞いてきた。
「大丈夫」
そう答えながら、アリシアの荷物に目がいった。二つの鞄が、どちらもかなり膨らんでいた。
「荷物、多くないか?」
「これでも厳選したんだよ」少し機嫌よさそうな声で言い返してきた。家族への土産で膨らんでいるのだろう。久しぶりに会えることが、表情の隅々から滲み出ていた。
「アリシアもリュートも、気をつけてね」クラリスが言った。
「ああ、危ないところを通るわけでもないから大丈夫だよ。クラリスはいつ帰るんだ?」
「今日の午後には出発するつもり」
「一年ぶりの領地だよね。楽しんできて」とアリシアが言った。
「うん。アリシアも。馬車じゃなくて馬で帰るんだよね?」
「そう。久しぶりだけど、領地ではよく乗ってたから、たぶん大丈夫かな」
「いいなー。私も誰かに教えてもらおうかな」
「いいと思うよ。移動の幅が広がるし」
「だよね」笑顔で話が弾んでいた。
このまま放っておくと、いつまでも話し続けてしまう。そう思い、「そろそろ行こう」と声をかけた。
アリシアが頷き、「じゃあ、また休暇明けにね」とクラリスに手を振った。「またね」とクラリスも振り返した。俺も手を振り、荷物を持って、貸出用の厩舎へ向かった。
――――――
旅慣れた様子の栗毛の雄馬を二頭受け取った。長期貸出と伝えていたからか、体格のしっかりした馬を選んでくれていた。
首筋を一度撫でてから「これからよろしく頼む」とだけ言い、鞍に荷物を括り付けて乗り込んだ。アリシアも同じように馬に声をかけていた。
夏の夜明け直後の空気はまだ涼しく、石畳を打つ蹄の音が朝の静けさの中に規則正しく響いていた。
――――――
王都を発ってから数日が経った。整備された幹線道路から徐々に田舎の色が戻ってきた。道の両脇に草が高く伸び、土と草の匂いが濃くなった。
旅の段取りは俺が取った。宿の選定、馬の管理、天候の読み、道程の確認。初めてひとりでやることだったが、気がつけばきちんとできていた。できるようになっていた、という実感は薄かった。ただ、うまくいっていた。
アリシアの機嫌は良かった。距離も、どことなくいつもより近い気がした。馬を並べて歩かせながら、よくしゃべった。
学院の話、クラリスへのお土産をまだ悩んでいるというアリシア、帰ったら何を食べるか。馬の歩調に合わせるようにして、言葉が行き来した。
時々、何か言った後でアリシアが返事をしないことがあった。気になって横を見ると、前を向いたまま少し笑っていた。何がおかしいのかはわからなかったが、機嫌がいいのはたしかだった。
馬の背に揺られながら、その横顔を一度だけ見た。視線に気づいた様子もなく、アリシアはそのまま前を向いていた。
ある日の午後、アリシアが「王都から離れるほど、空の色が変わる気がしない?」と言った。
「変わるな」と返した。
「そうだよね。青が濃くなるというか……王都の空って少し白っぽい気がして」
「建物が多いせいじゃないか」
「それもあるかも。でも、なんか空気ごと違う気がするんだよね」
アリシアが少しの間、空を見上げた。
「帰ったら、この空がずっと見られるんだと思ったら、なんか嬉しいな」
「そうだな」
それきり、しばらく二人とも黙って空を見ていた。馬の蹄の音だけが、規則正しく続いていた。
途中の宿に泊まった夜、食事をしながら会話が続いた。「スーリィはどうしてるかな」「ランベルト兄さんは元気にしてるよな」「エリオット様も変わりなければいいね」——そんな言葉が夜の食堂にゆっくり落ちていった。旅慣れてきた二人の、何でもないやり取りだった。
――――――
道中、何度か魔物との遭遇があった。
最初は小型の魔物だった。数も少なかった。精霊が気配を知らせてくれた——ほんの微かな緊張が、精霊の感触に滲んだ。それを察知して俺がアリシアに目配せすると、アリシアも頷いた。俺が剣で前衛を取り、アリシアが後衛から精霊術で支援する。会話は最小限だった。視線と動きだけで意図が通じた。二回目以降の遭遇も同じようだった。
そして、ある日の午後。
街道沿いの草むらが、風のない空気の中でわずかに揺れた。精霊が知らせてきた。ただの風ではない——そういう感触だった。アリシアも感じたようで、どちらともなく馬の足が自然と止まった。二人とも馬を降り、アリシアが馬を安全な場所へ誘導している間に、俺は前に出た。
草むらからホーンラビットの群れが現れた。七、八体。赤い瞳に、角の根元から紫の紋様が走っていた。街道近くの群れとしては多めだった。
「来るよ」とアリシアが静かに言った。
「ああ」と短く返した。
先頭の一体が跳びかかってきた。剣で受け流し、流れるまま次の一体へ移った。舐めてはいないが、焦ってもいない。丁寧に、速く。一体が横から回り込もうとした瞬間、アリシアの炎がそちらを先に塞いでいた。俺が動いた方向にアリシアの術が来ていた——どちらが先に察知していたか、もう思い出せなかった。視界の端でそれを確認しながら、残りを片づけた。
短時間で決着がついた。
後片付けで手を動かしている間、五歳の時のことが浮かんだ。
同じ種類の魔物と出会った。あの日は怖くて動けなかった。アリシアを庇って肩に傷を受けた。足がすくみ、体が動かなかった。あの感触を今でも覚えていた。
剣を下ろした時、体は震えていなかった。五歳の時と同じ相手に、今は剣が届いた。
後片付けの手を止めて、アリシアの様子を確認した。何も変わったところはなかった。ただ、アリシアがわずかに空を見上げた後で、一度だけ俺の方を見た。目が合った。それだけだった。どちらも何も言わなかった。
「怪我はない?」アリシアが聞いてきた。
「問題なし」と答えた。
「そう」
馬に乗り直し、南へ向かった。草の青い匂いが風に乗ってきた。夏の日差しは高く、道は続いていた。




