第61話 もう一歩の先
(アリシア視点)
冬期休暇に入って五日が経っていた。
大半の生徒が領へ帰った学院は廊下まで静かで、足音がよく響いた。石畳の冷たさが靴の底から伝わってくる。窓の外には昨夜降ったとおぼしき薄い雪が残り、冬の低い光を鈍く照り返していた。
午後の早い時間に、いつもの場所へ向かった。授業がない分、朝は少しだけゆっくり眠れた。それでも気づけば制服に手を伸ばしていた。
今年は、クラリスも帰省しなかった。ラントベルク領はグランツィリアから比較的近い。一ヶ月程度の冬期休暇であれば、十分な帰省期間が取れる。それでもクラリスは残ることを選んだ。精霊を感知する練習を続けたい、と言った。
その言葉が、素直に嬉しかった。
いつもの場所は、葉を落とした木々の間から空が広く見えた。霜の降りた地面は朝の光を受けて白く光り、歩くたびに枯れ草の茎が静かに折れた。一月の光は低く、影が長かった。冬の間中よく聴こえる風の音も、今日は遠かった。
場所に着くと、リュートとクラリスはすでに来ていた。それぞれ静かに、それぞれの集中の中にいた。リュートは少し離れたところで精霊術を試みていた。クラリスは木の根に腰を落ち着け、目を閉じていた。
「おはよう」
小さく言うと、リュートが振り返った。「おはよう」と短く返してきた。クラリスはほんの少し遅れて、瞼をゆっくり開けた。「おはよう、アリシア」——その声には、眠気とは違う遠さがあった。深く集中していた、そういう遠さ。
三人はそれぞれの場所に落ち着き、それぞれの練習を始めた。
こうして続けてきて、もうすぐ一年三か月になる。
リュートがアルトリース学院長との面談してからおよそ半年が経った。以来、私とリュートはずっと二重発動の練習を積み上げてきた。
詠唱による精霊術を持たない私たちには、「不自然な間」を自覚する手段がなかった。クラリスも手伝ってくれて、三人で試行錯誤して、まず「二つの精霊術を同時に発動させる」という基礎から始めることにした。
最初はまったくできなかった。意識すると、二つどころか一つも発動しなかった。何がいけないのかだれにもわからなかった。
ある日、クラリスが「アルトリース学院長に相談しない?」と提案した。
リュートは「自分たちでできるようになるほうが楽しいだろ」と笑って返した。リュートらしかった。その気持はわからなくはなかった。でも、時間がかかりすぎるのでは、という不安もあった。
結局、当面は自分たちでやろうということになった。
今では、リュートは二つの精霊術を連続して発現できるようになっていた。ただ、目で見ても「同時」とは言い難いズレがあった。私は一つ目の精霊術は発現した。二つ目は——精霊が反応している手応えはあった。なのに発現には至らないかった。何かが、もう一歩のところで止まっていた。
今日も、その「もう一歩」を探した。
一つ目の精霊術を安定させる。そのまま二つ目の精霊術へ意識を向ける。精霊が反応する。感じる。届いている、はずなのに——そこで止まる。これを繰り返した。
何がいけないのかわからなかった。意識が足りないのか。お願いの仕方が足りないのか。どちらを試しても、変わらなかった。
少し離れたところで、リュートが同じように繰り返しているのが見えた。二つの精霊術が、時間差はあれど発現していた。
クラリスの方に視線を向けた。
クラリスはそっと目を閉じていた。ただ待っているのではない。感じようとしているのとも少し違った。何かを、すでに知っているかのような静けさで、そこにいた。
アリシアはしばらくその横顔を見つめた。
一年三か月で、クラリスは発動の一歩手前まで来ていた。アリシアが同じ段階に辿り着くまで、二年は掛かった。
嬉しかった。クラリスの成長は、純粋に嬉しかった。
目を戻して、また始めた。一つ目の精霊術を安定させる。二つ目へ意識を向ける。精霊が反応する。そこで、止まる。
気づけば日が傾き始めていた。ここまでにして、三人は寮へ向かった。
帰り道、歩きながら自分の手を見た。
後少し、という感触だけが指の先に残っていた。それが嬉しいのか、もどかしいのか、自分でもわからないまま、足を進めた。




