第59話 鎖の在処
(リュート視点)
アルトリース学院長との面談から二日が経っていた。
授業が終わり、アリシアとクラリスと三人でいつもの場所に向かっていた。昨日はクラリスの都合で練習がなかったから、今日は三日ぶりだと思っていた。
講義棟の出口を出たところで、「おい」という声が聞こえた。
振り返ると、ユリウスが立っていた。
「少し時間はあるか?」
俺を見ている目だった。
アリシアが俺の顔を見て、「先に行ってるね」とクラリスの手を掴んでさっさと歩き出した。クラリスは一度こちらを見てから、アリシアに連れていかれた。
「ああ、今、時間ができた」とユリウスに答えた。
「じゃあついてこい」とユリウスは歩き出した。
――――――
連れてこられたのは、中庭の片隅にある東屋だった。
建物の壁に半分隠れるような場所に、石造りの柱と屋根だけの小さな構造物があった。日が傾くこの時間帯、中庭の光は芝の上を横に流れていて、東屋の内側だけが一段薄暗かった。人の声はほとんど聞こえない。講義棟の喧騒が遠かった。
「こんな場所があったんだな」と自然に声が出た。
「ああ、人があまり来ない場所だ」ユリウスが答えた。
ユリウスは迷わず奥の石のベンチに向かった。座り方に、何度もここに来た体の記憶があった。
「それで、今日はどうしたんだ?」
「前に言っただろ、「今日のところは」と。その続きだ」
「ああ、そうか」
「このことは、あまり話したくはないが、伝えるべきことを話すためには先に話さないといけない。だから、あまり口外するなよ」前回はなかった前置きがあった。
「わかった」
ユリウスが一つ息を吐いた。
「先に話すのは、僕の家のことだ」苦々しい顔で言った。
予想していなかった。バルネルト家の話とは。無理に話さなくてもいいのに、とも思ったが、黙って聞くことにした。
「もともとは伯爵家だった。三代前の当主、つまり僕の高祖父が、領地経営で大きな失敗をして降爵した」
一度止まった。言いにくいところを言い終えた、という息の切り方だった。
「再興のために曽祖父の代でハルトヴィン侯爵に近づいた。それでも、財政の立て直しはまだ途中で、父の手腕でなんとか持ちこたえている状況だ」
話しながら、ユリウスの視線が少しずつ遠くなった。言葉は淡々としているのに、声の出どころが違う場所にあるような話し方だった。父という言葉を口にしたとき、一瞬だけ喉が動いていた。
「ハルトヴィン侯爵……ラインハルトの家か?」
「そうだ」
入学式のあと、ラインハルトがユリウスの肩を叩いて言った言葉を思い出した。「同じクラスか。せいぜい私の役に立てよ」と。ユリウスは笑っていたが、その笑顔が引きつっていた。そのときの意味が、今になって腑に落ちた。だからあの態度だったのか。
「そのハルトヴィン家は王国で最も教会に近い貴族だ。そして、僕の家はその侯爵家の顔色を窺わなければいけない状況だ。だから、繋がりを通じて僕の家も教会と関わりを持つようになった」
そこでまた一度止まった。続きがある、という間だった。
「それ自体は構わない。その事もあって、僕は精霊術の道を歩んだ一面もある」ユリウスは遠くを見ていた。
「そうか」としか言えなかった。
ユリウスの精霊術はまだ戻っていない。念のため、精霊に聞いてみた。答えはわからなかった。ただ、精霊が何かをしているわけではないことはわかった。
ユリウスがまた息を吐いた。
「ここからが伝えるべきことだ」と言ってこちらを見た。しっかり聞けよという目だった。
しっかり目を合わせて頷いた。
「春季休暇中に、父に連れられて、ハルトヴィン家を訪ねた。繋がりを次世代に引き継がせる意図があったのだろうと思う。それはいい。そのとき、ハルトヴィン家の書庫を案内され、一冊の文書を見せられた」
ユリウスの目には、そのときの光景がまだ映っているように見えた。
「その文書は、百五十年ほど前に書かれた、教会内部の歴史記録だった」
ユリウスは語り始めた。
約四千五百年前の神殿国家時代末期に、対話式精霊術と呼ばれる形式が存在したこと。その形式を用いた大規模な精霊術が引き起こした災害があったこと。教会がその形式を約千三百年前に禁忌化した経緯が記されていたこと。そして。
「禁忌化を強く支持した記録の中に、ハルトヴィン家の祖先の名前があった」
ユリウスは淡々と言った。声に感情はなかった。だからこそ、その言葉が持っている重さがそのまま届いた。
沈黙が来た。
シュタイナー司教が講堂で話していた話だ、と気づいた。遠い昔、精霊術の統制を持たなかった者たちが引き起こした災害——あれが、これだと思った。
精霊に話しかけた。
精霊が揺れた。特別講義のあとで感じた、傷のような、今もそこにあり続けているものの感触とは違う揺れだった。今度のはもっと下にある。岩の底を指で押したときのような、嘆くよりも古く、動かしようのない重さだった。この災害という話は、精霊の記憶の中にある。事実だとわかった。
思考が続いた。
ハルトヴィン家の書庫に教会内部の文書があった。ハルトヴィン家は教会に最も近い貴族。この二つはすでに繋がっている。
そこで一度、止まった。
大聖堂、という言葉が浮かびかけて、別の像が先に来た。春季休暇のハルトヴィン家の書庫。案内された、と言った。見せられた、と言った。ユリウスが選んで渡してきた情報と、ユリウスを縛る関係の重さが、同じ一点に向かって収束していく感触があった。
大聖堂の廊下で見た、あの二人。黒い法衣に金の刺繍の老人。そして、重厚な外套を着た大柄な男。
あの男はハルトヴィン侯爵だったのだろうと思った。だとすれば、大聖堂にいたことも、不思議ではなかった。
確信に近かった。しかし声には出さなかった。
「なあ、なんで教えてくれたんだ?」
「借りを返しただけだ」
ユリウスは立ち上がった。
「あとは自分で考えろ」と言って、立ち去った。
足音が、石畳の上を遠ざかっていった。振り返らなかった。最初からそのつもりで来て、言うべきことだけ言って、それで終わりにした人間の足音だった。
俺はしばらくその場から動けなかった。
立ち上がる気にならないというより、体が情報を整理する時間を勝手に作っていた。ユリウスの足音が遠ざかって、中庭の静けさが戻ってきてから、ようやく顔を上げた。
東屋の外に、中庭が広がっていた。整えられた生け垣と、刈り込まれた芝と、等間隔に並んだ石畳。目が、石畳の目地の線に止まった。どこまでも同じ間隔で繰り返される、揃えられた区切り。
精霊術を詠唱で縛ることも、こういうことなのかもしれなかった。整えられた形の中に収めることで、外からは美しく見える。その内側で何かが変わっていても、形が揃っていれば問題はないと見做される。
前回のユリウスの話、アルトリース学院長との話、今回の話が、頭の中で並んだ。
異端、禁忌、対話、詠唱、貴族、教会、学院、精霊術。
すぐにはまとまらなかった。
繋がるところは繋がった。ハルトヴィン家が教会に近い。その家の書庫に教会内部の文書があった。祖先は禁忌化を支持した。それだけのことだ。論理の筋は通っている。
ただ、一点だけ、どこかが合わなかった。
精霊は、先ほど揺れた。災害を記憶していた。それは本当のことだとわかった。だが、その揺れの質が——「危ない」という揺れとは、少し違った。嘆くよりも古く、動かしようのない重さだった。怖れではなく、何か別のものだった。
俺が精霊に話しかけるとき、精霊は逃げない。離れない。それは、なぜなのか。
答えは出なかった。まとめようとすると、どこかがズレた。
しばらくして、立ち上がった。
いつもの場所に向かった。




