第57話 学院長の言葉
(ヘルミーネ視点)
授業が終わる時刻になって、ようやく書類から顔を上げた。
積み上がった案件の山はまだ崩れていなかったが、今日はここで切り上げた。慌てて書類を束ね、机の端に寄せ、学院長室を出た。
廊下にはちらほらと生徒が流れていた。教室を出て研究室へ、訓練場へ、それぞれの場所に向かっていく顔があった。すれ違う一人一人に目を向け、「また明日」「気をつけて」と声をかけながら歩いた。顔と名前は全員一致している。それだけは怠ったことがなかった。
生徒たちが帰り始めている。アーデン君は教室にいるだろうか、それとも出口に向かっているだろうか。
少し考えて、講義棟の出口に向かった。
出口まで来たとき、前から三人組が歩いてくるのが見えた。男子一人と女子二人。中心の男子の顔を確かめてすぐわかった。
少し近づいて、声をかけた。
「アーデン君」
三人は会話の途中だったようで、気づいていなかった。声に反応して、アーデン君がこちらを見た。
「アルトリース学院長……もしかして、俺を呼びましたか?」
「はい、呼びましたよ。アーデン君、少し時間をいただいてもよいですか?」
はっきりと答えると、アーデン君が隣の二人の顔を見た。焦った表情だった。心の中で少し楽しくなった。笑顔がこぼれていたかもしれない。
ラントベルクさんが「今日は大丈夫よ」と胸の辺りで両手のひらをアーデン君に向けて言った。
ブランデルさんは「リュート、あなた何したの?」と心配と怪訝の混ざった顔で聞いていた。
アーデン君はラントベルクさんに向かって「ごめん、また後で」と言い、ブランデルさんには顔を小刻みに震わせながら「何もしてない……はず」と答えていた。
「アルトリース学院長を待たせないの。いいから行きなさい」とブランデルさんに促されて、アーデン君がこちらに向き直った。
このやりとりが微笑ましかった。この後の話のことを、一瞬忘れるくらいに。
「それでは、よろしいですか?」と気を取り直して確認した。
「はい、大丈夫です」
「ありがとうございます。では、学院長室までお願いします」とアーデン君に伝え、ブランデルさんとラントベルクさんに「少しお借りしますね」と声をかけてから、歩き出した。
学院長室に向かいながら、「あの、どういった内容でしょうか?」と聞いてくるのに「着いてからお話します」とだけ返し、その後は無言だった。
廊下を歩きながら、話の順序を頭の中でもう一度確認した。先ほどの三人のやりとりを思い出しそうになるたびに、それを脇に追いやるようにして。
――――――
学院長室の扉を開けると、アーデン君が入り口のところで一瞬止まった。室内をひと通り見渡してから入ってきた。警戒というより、場所を確かめる目だった。
ソファを勧めた。お茶を二人分用意して、片方をアーデン君の前に置き、正面に座った。
「ありがとうございます」と言って、一口飲んでいた。
少しの間を置いて、口を開いた。
「こうしてお話するのは初めてですね」
「はい」
「あの時は、バルネルト君を守っていただいて、ありがとうございます。おかげで、あの規模の事故にも関わらず怪我人を出さずに済みました」
頭を下げた。
「いや、頭を上げてください」とアーデン君が腰を浮かせて言った。
頭を上げると、「あの時、俺はもっと早く対処できていたはずなのに、できませんでした……申し訳ありません」と逆に謝られた。
「いえ、アーデン君、あなたは誇っていいのですよ。あなたは命を守ったのですから」
そう言わずにはいられなかった。
お茶を一口飲み、「さて、ここからがあなたを呼んだ本題です」と前置きをした。
「アーデン君、あなたは先日、大聖堂でシュタイナー司教と面会しましたよね?」
「はい、お会いしました」
「何と言われましたか?」
沈黙があった。アーデン君がこちらをじっと見た。何かを測るような目だった。
まだ信用の根拠が足りない、という目だとわかった。当然だとも思った。
「そうですね。まずは私からお話しましょう」
「一昨日、私もシュタイナー司教に呼ばれ、大聖堂で面会してきました。内容は「学院生徒の精霊術の在り方について、精霊と人の正しき関係を徹底させてほしい」というものでした」
アーデン君の肩が少し固くなった。警戒する方向に動いているのがわかった。
「安心してください。私は、あなたはもちろん、全生徒に対して、教会の言う精霊術を無理強いするつもりはありません」
言い切った。アーデン君の顔に驚きが広がった。
「少し学院のことをお話しましょう」と続けた。
「あなたはもう感じているでしょうが、シュタイナー司教は教会側の学院との窓口に当たる人物です。先日の視察も特別講義も、シュタイナー司教が関わっているということになります」
「学院には学問の自由があり、ある程度の自治も認められてはいます。ですが、教会に対しては弱い立場にあり、教会の教義と真っ向から対立し続ければ、学院の生徒たちにも影響が出てしまいます」
アーデン君の表情が変わった。他の生徒たちへの影響までは想定していなかったのだとわかった。
「……これが、今の学院なのです」
言い終えて、少しの間、視線を落とした。学院長という立場で言えることとできることの間に挟まれて、ずっとそこにいるのだとあらためて思った。その息苦しさを、アーデン君の前では見せなかった。
「私は、教会は必要な存在だとは認識しています。ですが、その形が唯一の正しい形だとは思っていません」
また表情が変わった。驚きの後に、何かを察した顔になっていた。
少し時間を置いてから続けた。
「その上で、教えていただけませんか?シュタイナー司教に何を言われたか、を」
アーデン君の目をまっすぐ見て言った。
アーデン君がこちらを見返した。少しの時間、そのままでいた。
その間に、何かが動いたのがわかった。迷っているのではなかった。受け取ったものを、自分の中で確かめていた。
やがて、口を開いた。
「シュタイナー司教からは、精霊術の方式を改めるよう、言われました」
「改めるつもりはあるのですか?」
「ありません」
まっすぐ、こちらの目を見て、きっぱりと答えた。
「わかりました。それで構いません」
頷き、微笑んで続けた。
「あなたは今のままで大丈夫です。そのまま進んでください」
アーデン君はすぐには動かなかった。手を膝の上に置いたまま、どこかを見ていた。視線の先に何かがあるというより、言葉が降りてくるのを待っているような静けさだった。それを見ながら、この子は受け取る前に急がない、と思った。
顔が上がったのを見て、次に進んだ。
「それで、今後のことです」
「はい」
「まずは精霊術をどうにかしましょう」
「えっ?」という顔になった。
「今、詠唱と発動のズレ——「不自然な間」によって、色々と注意されていますよね?」
知っているのかという顔をした。
「この「間」は精霊術の方式の違いによるもので、どうしても生じてしまいます。ただ、「間」を小さくすることはできます」
詠唱と発動をどう揃えるかを順を追って説明した。アーデン君は一度も聞き返さなかった。頷き方がほんの少し先に来ていた。説明しながら、すでに試している部分があるのだとわかった。こういう話のほうが向いているのだと思った。
「これらを意識することで「間」を認識できる人はほぼいなくなります。ただ、どうしても「間」は生じていますので、注意深く見れば認識されてしまいます」
「そこで、もう一つの技術が、二重発動です」
「二重発動……」アーデン君がその言葉を繰り返した。名前から構造を組み立てようとしているような間があった。
「ええ、二つの精霊術を同時に発動させる技術です。錯覚を起こす精霊術を重ねることで、「間」を認識させなくする、という方法です」
言い終わらないうちに、何かが繋がった顔になっていた。
「なるほど」と、小さな子が新しいものを与えてもらったようなわくわくした顔になった。
「大事なことは「同時」に発動させることです。ほんの少しでもズレると、「間」は認識できてしまいます」
早く試したくてたまらない様子だった。思わず苦笑した。
「お話したかったことは以上です。だいぶお時間をいただいてしまいましたね」
「いえ、まったく問題ありません。貴重なお話をありがとうございました」と深々と頭を下げた。
「今後、困ったことがあれば、エーレンバルト先生ではなく、私に直接話してください」
「はい、ありがとうございます」
立ち上がり、もう一度深く礼をして、「それでは、失礼します」と言って出ていった。
ソファから立ち上がり、自分の椅子に戻った。窓の外はもう夕方の光になっていた。気づかないうちに、それだけの時間が過ぎていた。
話せることは話しました。あとはあの子次第ですね。
リュート・アーデン。どこか異質な雰囲気を秘めた生徒だった。言葉を受け取るとき、急がない。考えるとき、外に出さない。それでいて、「ありません」と言ったときの目は、迷っていなかった。
ああいう子がきっと、将来大きなことを成すのだろう。
少しだけその将来を想像して、現実に戻った。
これから、彼は大変になる。私は私にできることをするだけだ。
そう思い、書類の山に向かった。




